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「守備で生き残る」と決意したきっかけは?【前編】/元中日・井端弘和に聞く

 

読者からの質問にプロフェッショナルが答える「ベースボールゼミナール」。今回は内野守備編。回答者は現役時代、7度、ゴールデン・グラブ賞に輝いた、元中日ほかの井端弘和氏だ。

Q.井端弘和さんはプロ入り後、「守備を磨いて生き残る」ことを思いついたと聞きました。何かきっかけになる出来事があったのですか? また、手本とした選手、先輩は誰でしょうか。(岐阜県・34歳)




A.一軍の首脳陣を振り向かせるために一芸に特化して伸ばさなければいけないと考えた

1年目、キャンプで守備練習を行う井端氏


 守備を磨くことを決意した最大の理由は、ドラゴンズに入って周りを見て、自分の何をアピールすればこの世界で生き残ることができるのか? と真剣に考えたからです。そんなに打てるバッターでもないし、足も荒木(雅博、現中日コーチ)のように速くもない。どれも普通では、一軍の首脳陣に見向きもされないだろう、と。まず、何か一芸に特化して伸ばさなければいけないと考えたときに、攻・守・走の中で自分としても比較的自信があり、入団時点で評価もされていた守備がまっさきに頭に浮かびました。その上で、「あいつはバッティングさえ良くなればレギュラーになれるのにな」と、思ってもらえるような選手を目指そうと考えたわけです。そこまでの選手になれば、あとは1つに集中できるわけですからね。

 入団当時から二軍ではレギュラー(自慢するわけではありません)で、守備も、バッティングもと練習には時間を割くのですが、キャンプなどでは一軍のほうに呼ばれていて、そのときはバッティングの練習は決められた時間だけ。それ以外はひたすら特守に充てていました。それこそ早出の守備練習に始まり、日が暮れるまでです。その時間をバッティングに充てる選択肢は、当時の自分にはなかったですね。

 入団2年目の春は、福留(孝介、現阪神)が鳴り物入りで入団してきて、ずっとセットで守備練習でした。彼はスーパールーキーでしたから、入団即レギュラー(※今は外野手ですが、入団当初はショートでした)。誤解を恐れずに言えば、彼の守備を見て「この守備なら、オレ、一軍いけるな」と自信を持てたのは確かです。

 お手本にしたのは久慈照嘉(現阪神コーチ)さん。入団1、2年目の一軍キャンプのときは、当時は優しく教えてくれるという世界ではないですから、久慈さんの練習を見てマネして(つまり、盗む、というやつです)繰り返す。それを2年続けると、久慈さんも気にかけてくれるようになり、3年目になってようやく会話ができる関係になり、あるとき思い切って質問してみると、ていねいにアドバイスをくれた。「あ、プロも聞けば教えてくれるんだ」と(笑い)。サイズも似ていますし、何よりもあの堅実な守備は本当にお手本になりました。しばらくは久慈さんから譲っていただいたグラブでプレーしていましたからね。

<「後編」に続く>

●井端弘和(いばた・ひろかず)
1975年5月12日生まれ。神奈川県出身。堀越高から亜大を経て98年ドラフト5位で中日入団。14年に巨人へ移籍し、15年限りで現役引退。内野守備走塁コーチとなり、18年まで指導。侍ジャパンでも同職を務めている。現役生活18年の通算成績は1896試合出場、打率.281、56本塁打、410打点、149盗塁。

『週刊ベースボール』2020年11月2日号(10月21日発売)より

写真=BBM
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