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軟式野球出身で148勝138セーブ 「誰もマネできない」フォームの左腕とは

 

テストで広島に入団


広島一筋22年、先発、救援でチームの勝利に貢献した大野


 重心が低く、軸足を深く沈み込ませてタメをつくる独特の投球フォームで、40歳を超えて最優秀防御率のタイトルを獲得した左腕がいた。広島一筋22年間。先発、救援で活躍した大野豊だ。

 大野は出雲商高の2年時から本格的に投手に専念。フォームはプロで活躍したときと変わらなかったという。島根県下で好投手として注目され、社会人野球からの誘いもあったが、母子家庭で苦労をかけた母を少しでも楽をさせたいと、出雲市信用組合へ就職。窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。

 だが、軟式野球を続けるうちにプロで自分の力を試したいという思いがわき上がってきた。高校時代の監督が広島の首脳陣と大学時代の先輩・後輩だったことからツテを頼り、1977年2月に特別に入団テストを受けて合格。契約金なし、俸給は月額12万5000円でドラフト外で入団した。

 1年目の77年は1試合の登板のみ。阪神戦で片岡新之介に満塁本塁打を打たれるなど防御率135.00という惨憺たる結果だったが、同年オフに南海からトレード移籍してきた江夏豊に見初められたことが、野球人生の大きな転機になる。二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組み、プロ意識も叩きこまれた。78年に41試合登板、79年もリーグトップの58試合登板と救援で不可欠な存在に。81年に守護神に抜擢され、8勝11セーブ、翌82年も10勝11セーブをマークした。

軸足を深く沈みこませてタメをつくる独特の投球フォームだった


 下半身に負担のかかる独特の投球フォームは足腰が強く、股関節が柔らかい大野しか体現できず、「誰もマネできないフォーム」と言われた。大きな故障がなく必要とされる場所で投げ続けた。84年に先発転向すると2ケタ勝利を挙げてリーグ優勝、日本一に貢献。88年には13勝7敗、防御率1.70で、最優秀防御率と沢村賞を獲得した。

 150キロ近い直球に加えてカーブ、シュート、スライダー、真っスラ、スラーブ、ドロップ、パームボールと「七色の変化球」を駆使し、広島のエースから球界を代表する左腕に。大野のすごみは年を重ねる度に進化することだった。91年に救援に再転向すると、開幕から日本記録の14試合連続無失点を樹立するなど6勝2敗26セーブ、防御率1.17で最優秀救援に輝き、リーグ優勝に大きく貢献。92年も2年連続リーグ最多の26セーブで防御率1.98と抜群の安定感だった。

40歳を超えても第一線で


 1955年生まれの大野は巨人江川卓、阪神の掛布雅之らスター選手と同学年だった。若手のときは江川や掛布が球界の主役として華やかなスポットライトを浴びていたが、年齢の壁に抗えず次々に引退していく。40歳を超えても一軍で活躍し続ける大野は驚異的だった。95年の途中に救援から先発に配置転換され、97年に防御率2.85で自身2度目の最優秀防御率を獲得した。

 98年に42歳の史上最年長で開幕投手を務める。まだまだ投げられると誰もが思っていたが、引き際の美学があった。持病となっていた血行障害が悪化したこともあり、8月4日の巨人戦で当時新人の高橋由伸に逆転3ランを浴びて引退を決意。9月27日の引退試合。対戦した中根仁に初球の直球が146キロを計測。最後は142キロの直球で空振り三振とまったく衰えを感じさせなかった。

 現役最終年の成績は13試合登板で3勝2敗、防御率2.91。引退セレモニーでは「皆様のご声援に応える投球ができなくなり、限界を感じ引退とします」と語り、「プロ野球で何とか成功したいという夢を持ち、この世界に飛び込んできた私がこの年までプレーできたことを誇りに思います。最後になりますが、我が選んだ道に悔いなし! 背番号24番!」と声を張り上げ、スタンドのファンから大きな拍手を受けた。

 プロ22年間の現役生活で707試合登板、148勝100敗138セーブ、防御率2.90。軟式野球出身のドラフト外と異色の経歴で1年目は防御率135.00でスタートしたプロ野球人生だったが、ひたむきな努力と美しいフォームで球史に残る名左腕に。最後まで輝き続けた野球人生だった。

写真=BBM
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