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平成助っ人賛歌

超大砲ウッズが場外弾連発でジャパニーズドリームをつかんだ理由とは/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

当初は保険的な扱いも


2003年、韓国球界から横浜に入団。すぐにパワーあふれる打撃を見せつけた


「選手たちのほとんどが、白マスクにスーツをという怪しい? ファッションで九州を往復した」

 これは2020年ではなく、『週刊ベースボール』2003年5月12日号掲載、中日の九州遠征の様子を報じた一文である。当時、新型肺炎・SARS(重症急性呼吸器症候群)が世界各地で猛威を振るい、球団は飛行機搭乗の際にマスクを支給した。強制ではないが、手渡した選手のほとんどが鼻と口を守り移動したという。野球ゲーム界ではフジテレビとタイアップした『熱チュー!プロ野球2003』(ナムコ)、日本テレビと組んだ『THE BASEBALL2003 バトルボールパーク宣言』(コナミ)がPS2を舞台にリアル系野球ゲームの覇権争いを繰り広げた時代の話だ。

 そんな03年(平成15年)の球界では、川相昌弘巨人)の犠打世界記録とひとりの規格外のパワーヒッターが話題となっていた。横浜スタジアムで場外アーチを連発した背番号44、横浜ベイスターズのタイロン・ウッズである。身長185センチ、体重102キロ、韓国球界の5年間で174本塁打の右の大砲。ただ当初、横浜は同時期に28歳のスティーブ・コックスという年俸3億2000万円のメジャー・リーガーを獲得していたため、すでに33歳で年俸5000万円のウッズは、同じ助っ人一塁手の「コックスの保険」的な扱いでの来日だった。

 だが、春季キャンプでウッズは初日こそフリー打撃で空振り連発するも、体が動き出した2月6日には宜野湾球場のバックスクリーンを越える推定165メートル弾を放ち、翌7日にコックスは走塁練習中に右ヒザを負傷してしまう。運命の別れ道、ここからふたりの評価は逆転する。開幕から「四番・一塁」に座った背番号44は、4月11日のヤクルト戦(横浜スタジアム)で鎌田祐哉から挨拶がわりの第3号場外アーチ。4月27日の巨人戦でも上原浩治のフォークをすくい上げると、打球はハマスタ左中間場外に立つ照明塔の支柱の間を通り抜けて、横浜公園内の木にぶつかった。木に当たらなければ160メートル飛んだと言われる、ハマスタ史上最長ショット。高校時代までプレーしたアメリカン・フットボールと毎日のウエート・トレーニングで鍛えたウッズのスーパーパワーは話題となり、4月に7本塁打、5月は打率.303、10本塁打、23打点で月間MVPに輝く。

「ニッポンはいい国だぞ」と聞いていた


 88年にエクスポズからドラフト指名されるも、一度もメジャー経験のないまま東アジアに流れたウッズがようやくつかんだジャパニーズドリーム。その波瀾万丈の野球人生を『週刊ベースボール』03年6月23日号の独占インタビューでこう語っている。

「アメリカの場合、どれだけいい選手かということよりも、チームがどれだけのお金をこの選手に使ったかという、政治的なことが考慮されて、試合に出る選手が決まったりするんです。でも、韓国や日本はそうじゃなくて、チームの中で状態のいい9人をゲームで使う意識が根付いているのではないか、自分にとっていい環境なのではないか、と以前から思っていました。90年代に中日で活躍したパウエルからも『ニッポンはいい国だぞ』と聞いていましたし」

 実際に横浜は前年デビルレイズで16本塁打のコックスよりも、今の実力を見て自分を使ってくれた。もう政治的なことに巻き込まれたくないので、できれば日本で現役生活を終えたいという苦労人ウッズの言葉が続く。

「(03年以前にも)実際、日本の球団に売り込んだこともあったんですが、『いくら韓国で活躍しても、日本では無理だろう』という見方をされたので、そういう評価をいずれ見返してやろう、と」

「活躍できたことで、球団やチームメートから高い評価をもらいましたが、それにのぼせ上がらないようにして頑張っていこうと。性格的にのんびり屋なんですが、たとえこの先、スポットライトが当たらなくなっても、周囲の声に惑わされることなく頑張っていこうと思っています」

 場外ホームランの感触については、「打った瞬間はバットの芯に当たっているので、手にはしびれも何もありません。強引に引っ張ることで、バッティングの調子を崩してしまうので、フィールド全体を意識するようにしている」とサラリと語り、ホームベース付近で祈りを捧げるのはホームランを打つ肉体を作ってくれたことに感謝の気持ちを捧げているのだという。このインタビューの直後、6月8日の巨人戦で工藤公康からバックスクリーン右のスタンドを飛び越え、横浜の夜空に消える特大アーチをかっ飛ばす。早くもシーズン19本中5本目の場外弾。あまりのパワーに球団も事故防止のため横浜スタジアムの場外に警備員を配置することを急きょ決定。ハマの新名物として盛り上がった。

 しかし、だ。この年の山下大輔新監督率いる横浜は45勝94敗1分、勝率.324(セ・リーグで年間90敗以上は70年のヤクルト以来33年ぶり)という、すさまじい負けっぷりで首位・阪神と42.5ゲーム差のぶっちぎりの最下位に沈む。そんな中、ウッズは球団初の40本塁打でラミレス(ヤクルト)とともに本塁打王を獲得。得点圏打率.237とチャンスの弱さも指摘されたが、背番号44の場外弾は新人で25本塁打を放った村田修一と並び数少ないチームの明るいニュースだった。

2005年から中日に在籍。新天地でもすさまじい打撃を披露した


 翌04年も130試合で45本塁打を放ち、タフィ・ローズ(巨人)と分け合い2年連続のキング獲得。この大活躍で年俸も高騰し、04年オフには中日へ球団史上最高額の年俸5億円での移籍が決まる。「オレは今までホームランのタイトルはたくさん取ってきた。でもそれより一番欲しいのは優勝だったんだ。このチームで優勝したいんだ」と自分がどれだけ打っても2年連続最下位に終わった横浜時代から、勝つことを求めて新天地へ。

 グラウンド上では勝負に徹し藤井秀悟(ヤクルト)の内角攻めに怒って右ストレートを食らわせ退場……かと思えば、私生活では愛犬のイングリッシュ・コッカー・スパニエル“ヌードル”をかわいがり、別に麺好きだからじゃなく、前の飼い主から名前ごと譲り受けたと笑う剛力マン。「ナゴヤドームのビジョンにオレが映し出されたときは、すごく喜んで吠えてワイフがヤキモチを焼くくらい夢中だぜ」なんつってなんだかよく分からないおのろけをかます一面も併せ持つ。年齢はすでに35歳を過ぎていたが、腰痛防止のため宿舎にも低反発マットを持ち込み体のケアに務め、遠征先でも朝からウエート・トレーニングに励む真面目さは変わらなかった。

落合監督の下、ストレスフリーで


キャリアハイの成績で2006年のリーグ優勝に貢献した


 一部では落合博満監督との関係を心配する声もあったが、そこは現役時代にオレ流調整で四番を張り、結果を残してきた指揮官だ。「あいつは放っておいても成績を残すよ。だから、自由にやらせているんだ」と主砲が気分よくプレーできる環境を与えた。遠征先で雨天中止となり、「自宅に帰りたい」と言えば許可され、試合日以外は完全フリーのストレスレス。この特別待遇にウッズもバットで応えた。

 史上6位の速さで通算100号を達成した05年こそチームは2位だったが、06年はまさに背番号44の一年となる。キャンプから右方向への打球を増やそうと、カウント2ストライクとなった後にボールをギリギリまで引きつけてミートする新打法に取り組み、課題のチャンスでの打撃を改善しようと試みる。結果、セ・リーグ史上2人目の1シーズン4満塁弾の大爆発。10月10日、巨人戦(東京ドーム)では4回に右翼席へ46号先制3ラン、延長12回に左中間席へ47号満塁アーチを放ち、ベンチ前で落合監督と抱擁すると、宿敵の本拠地で優勝を決定づける四番の一発にオレ竜は涙を流した。

 144試合、打率.310、47本塁打、144打点、OPS.1.037。この年のウッズは広いナゴヤドームをものともせず、37歳にしてキャリアハイの数字で本塁打と打点の二冠に輝き、ついでに151三振まで球団記録を塗り替えた。リーグ2位からチーム53年ぶり2度目の日本一を勝ち取った07年、さらに08年も続けて35本塁打を放ち、来日以来6年連続の35本塁打以上を記録。高騰した年俸と39歳の年齢がネックとなり、08年限りで退団したが6年間で通算240本塁打。年平均40本、NPB通算3466打席で三塁打と犠打が0という生粋のパワー系スラッガーでもあった。当時ウッズを担当していた桂川昇通訳によると、現在はフロリダ州タンパで牛を飼っているという。

 思えば、ウッズが日本にやってきた2003年は、巨人の松井秀喜ヤンキースへ移籍したシーズンでもあった。東京ドームの看板直撃弾が見れなくなったところに、入れ違いでハマスタの場外弾を連発する怪物が颯爽と現れた。あの年、セ・リーグを代表するホームランバッターの系譜は、ゴジラ松井からタイロン・ウッズへと確かに継承されたのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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