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イチローの天敵…対戦打率.160に抑え込んだ「パ・リーグ最強の守護神」とは

 

最多タイとなる5度のタイトル


近鉄のクローザーとして一時代を築いた赤堀


 1990年代の守護神として野球ファンの脳裏に浮かぶのが、横浜(現DeNA)の佐々木主浩ヤクルト高津臣吾ではないだろうか。佐々木は落差の大きなフォークが魔球と呼ばれ、「球種が分かっていても打てない」と打者たちを嘆かせた。5度の最優秀救援投手を獲得し、メジャーでも日本人最多の通算129セーブ、日米通算381セーブをマークした。現在ヤクルトの監督を務める高津もすごかった。NPB歴代2位の通算286セーブ。右のサイドスローから繰り出される伝家の宝刀・シンカーを武器にヤクルトで最優秀救援を4度獲得した。日本シリーズで挙げた通算8セーブは史上最多記録だ。

 上記の両投手がセ・リーグの守護神として活躍していた時期に、パ・リーグを代表する守護神として活躍していたのが近鉄の赤堀元之だった。佐々木、江夏豊岩瀬仁紀と並ぶNPB最多タイ記録となる最優秀救援投手を5度獲得。洗練された投球フォームから140キロ後半の快速球と、縦と横の2種類のスライダーでパ・リーグの強打者たちを打ち取っていた。

 静岡県藤枝市で生まれ育った赤堀は進学校の静岡高で2年夏に甲子園出場している。このときは直球の球速が125キロ前後で、カーブやスライダーで凡打の山を築く軟投派だった。野手転向も検討されて内野手や捕手を務めたが、冬場に初めて本格的なウエートトレーニングを行うと、肉体が進化して3年夏に140キロ近くまで上がった。急成長した赤堀に目を付けた近鉄にドラフト4位で指名される。

 高卒1年目の89年から一軍デビューを飾り、3年目の91年に吉井埋人と共にダブルストッパーを務めて9セーブを挙げる。92年が飛躍の年に。守護神で50試合登板して11勝4敗22セーブをマーク。最優秀防御率のタイトルを狙える状況になったため、10月5日のダイエー戦に先発してプロ初の完封勝利を飾るなど防御率1.80で最優秀防御率と最優秀救援のタイトルを獲得した。92年から97年までの6年間で5度の最優秀救援を獲得。球界を代表する守護神として確固たる地位を築く。

 女房役の的山哲也は週刊ベースボールの取材に、現役時代の中で一番印象に残っている投手として赤堀を挙げ、「ストレートもスライダーなどの変化球も、口で説明するのは難しいが本当に素晴らしかった。それが最多セーブの複数回獲得につながっていると思った」と語っている。佐々木のような圧倒的な威圧感や、高津のように日本シリーズなど大舞台で活躍した実績はなかったが、すべての球種の精度が高く制球も良いため首脳陣から絶大な信頼を寄せられていた。8年連続首位打者を獲得したオリックス時代のイチローと相性が良く、初の首位打者に輝いた94年からの4年間で25打数4安打、打率.160と抑え込んだ。

待望の先発転向も……


2004年限りで引退したが晩年はケガに泣かされた


 ただ、赤堀は守護神として活躍していた早い時期から心身にかかる負担を考え、先発に転向したいという思いがあった。その希望が叶い、99年から本格的に先発転向するが度重なる故障に泣かされた。開幕して2試合登板で2勝と順調な滑り出しだったが、4月末に右ヒジ関節周囲炎と右足首捻挫で登録抹消。さらに、右ヒジ靱帯の断裂が発覚する。再建手術を受け、2年近くのリハビリの後に01年4月8日のオリックス戦で723日ぶりの白星を挙げたが、故障したヒジをかばって投げていたことから今度は右肩痛を発症。若手の台頭もあり、ファーム暮らしが長くなった。

 2004年、近鉄はシーズン途中でオリックスと球団合併が判明し、激動の年になった。同年限りで球団の歴史に幕を閉じることになり、4試合登板に終わった赤堀は戦力外通告を受ける。当初は現役続行の意志を表明していたが、05年からオリックスの監督に就任は決まった仰木彬監督から投手コーチ就任の誘いを受けたため、現役引退を決断した。

 近鉄一筋16年間で380試合登板、58勝45敗139セーブ、防御率2.88。近鉄を象徴する選手は野茂英雄中村紀洋、タフィーローズなど豪快なスタイルの選手が思い浮かぶが、赤堀も近鉄の歴史を彩った名守護神だ。

写真=BBM
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