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星野仙一が「打つだけなら高橋由伸より上」と評した代打の切り札は

 

大砲不在の間は四番も


打撃センスに優れていた中日高橋光信


 巨人で活躍した天才打者・高橋由伸と同世代で、右の強打者として名を轟かせていた選手がいた。日米大学野球で四番に座り、中日、阪神でプレーした高橋光信だ。

 横浜市出身の高橋光信は強豪の中本牧シニア、横浜高とエリート街道を歩む。3年春には「四番・捕手」で甲子園出場したが、決して順風満帆だったわけではない。高校1年時に右肩を手術し、3年にはヒザを故障するなどベンチの外からグラウンドを見つめる時間が多かった。この時点ではプロは現実的な目標でなく、渡辺元智監督に親身に相談に乗ってもらったことから指導者の道を志す。教員免許を取得するため、国際武道大へ。リーグ新記録の大学通算16本塁打をマークし、日米大学野球選手権では同学年の高橋由伸の後を打つ四番として出場した。一塁の守備は巧いと言えなかったが、パンチ力が魅力の長距離砲として評価を高める。ドラフト6位で中日に入団。当時の監督星野仙一から「打つだけなら高橋由伸より上」と期待された。

 プロ1年目の98年はファームで打率.269、9本塁打。99年もファームで72試合出場し、打率.279、5本塁打と決して悪い数字ではない。だが、本職の一塁には山崎武司がいたため、なかなかチャンスが巡ってこない。打ち続けるしか道はなかった。3年目の00年にファームで打率.342、11本塁打、70打点と打点王を獲得し、8月に一軍デビュー。同月31日の広島戦(広島市民)で黒田博樹から左中間にプロ初アーチを放つなど、22試合出場で打率.237、2本塁打の成績を残した。

 だが、その後も度重なる故障などで一軍定着できない。転機となったのは落合博満が新監督就任にした04年だった。落合監督に背番号66を譲る事になった高橋は背番号0に変更。落合監督が掲げた「右の和製四番打者」候補の1人に挙げられるなど期待は大きく、シーズン後半から代打の切り札として起用された。9月7日の巨人戦(東京ドーム)では1点を追う8回二死満塁で驚きの采配に応えた。右投手の中村隼人に対し、セオリーどおりに左打者の井上一樹をそのまま打席に入るかと思われたが、「今のウチでボール球を振らないのはミツ(高橋光)かナベ(渡邉博幸)だけ」と選球眼の良さを買われ、右打者の高橋が代打で登場。同点の押し出し四球を選び、逆転勝ちに大きく貢献した。

 9月14日の阪神戦(甲子園)でも9回に完封目前の井川慶から起死回生の同点3点本塁打を放つなど価値のある一打が多かった。35試合出場で打率.296、3本塁打と信頼を勝ち取り、翌05年は72試合出場と倍増。4月2日の横浜戦(横浜)で1点を追う9回に相手守護神・佐々木主浩から逆転サヨナラ2ランを放つ。タイロン・ウッズ不在の間は四番も務めた。

阪神でも勝負強さを発揮


 06年限りでチームの戦力構想から外れたが、あきらめきれなかった。12球団合同トライアウトを受験後に、阪神の秋季キャンプに参加して入団テストに合格。08年には68試合出場で自己最高の打率.315、4本塁打、15打点と勝負強い打撃で貢献した。

 高橋はボランティア活動にも熱心なことでも知られた。中日在籍時代から毎年オフに名古屋市内の児童施設の子供たちを回転寿司屋に招き、自ら寿司職人となって寿司を振舞った。阪神移籍後も中日の若手選手に交じって参加している。

 10年限りで現役引退。記者会見で「戦力外という初めての経験でトライアウトを受け、一番最初に手を挙げてくださった球団が阪神タイガースなので、やはり甲子園は特別な球場ですよね。タイガースに入る前はやっぱりファンの皆様の熱い応援があってある意味怖い球場だという印象があったのですが、受け入れてもらった時には、すごく強力な味方が出来たという安心感がありましたね」と感謝を口にした。

 現役13年間で通算398試合出場し、打率.253、21本塁打、76打点。大学日本代表で三、四番コンビを組んだ高橋由伸のような華やかな野球人生ではなかったが、泥臭く一振りにかけた打撃で多くの野球ファンに愛された。

写真=BBM
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