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2020惜別球人

【2020惜別球人】阪神・藤川球児 ファンが背中を押した「火の玉ストレート」

 

野球の楽しさを教えたい


クローザーとして日米通算245セーブ、164セーブをマークした藤川


 マウンドに上がるたびに、ファンの声援が藤川球児の右腕を後押ししてくれた。不思議な力が宿り「火の玉ストレート」がさらに威力をまし、相手に襲い掛かる。真っすぐと分かっていても、スイングしたバットの上を通過する。常にファンをバックにして真っ向勝負で積み上げたセーブは日米通算245。ホールドは164。通算登板数は801試合。鉄人と言っても間違いない。

 2004年途中から中継ぎとなり、05年からは勝ちパターンの7回を担った。ジェフ・ウイリアムスと抑えの久保田智之との3人で7回から9回を任され、絶対的に打たれないリリーバーとして君臨。その3人の頭文字を取り「JFK」と呼ばれ、強力な「勝利の方程式」の中継ぎ投手としてブレーク。その年の阪神のリーグ優勝に大きく貢献した。

 05年と06年に2年連続で最優秀中継ぎのタイトルを獲得し、名実ともに阪神の中心選手となった。06年の途中から本格的にクローザーに。翌07年に46セーブを挙げ、セーブ王に輝き、そこから6年連続20セーブ以上を記録。11年には41セーブで2度目のセーブ王と日本を代表する投手になった。

 13年から2年契約でMLBのカブスとメジャー契約。12試合に登板し1勝1敗2セーブ、1ホールド、防御率5.25の成績。しかし、メジャー初勝利の翌日に右腕を痛め、6月にトミー・ジョン手術を受けた。14年はカブスでプレーするも、15年はFAでレンジャーズに。だが5月にメジャー40人枠から外され自由契約となった。そこから故郷にある独立リーグの四国ILの高知に入団する。

 その高知での日々で「子どもたちに野球の楽しさを伝えたい」と奮い立ち、16年に阪神に復帰した。だが、出ていく前のようにクローザーとして迎えられたわけでなく、自分の力で居場所を勝ち取らないといけない状況であった。先発や負け試合でも登板するなどチームを下支えしながら、抑えていくことでチームから再度信頼を得ていった。その間も「火の玉ストレート」は健在。やや球威は落ちたが、ポップする真っすぐで空振りを獲っていった。

 18年からは勝ちパターンの中継ぎとなり、19年の開幕当初はセットアッパーを務め、抑えのドリスが不調になると後半から、元の居場所である「クローザー」に返り咲いた。終盤怒涛の6連勝に貢献し、クライマックスシリーズ・ファーストステージを突破した際のガッツポーズは印象的だ。

「(阪神)役回りを2周した感じです。このときに自分に勝ったと思った」

11月10日の引退セレモニーでは終始笑顔でファンに感謝の思いを伝えた


 そしてコロナ禍で迎えた2020年。変則的なシーズンで調整も難しかったが「6連戦中で6試合すべて登板する準備にあたるというのが僕のモットー。シーズンが始まって準備していく中で連投、2回連投で投げたことですら『アレ?』と思ったんですよね。これは体がおかしいと」とシーズンに入り異変を感じた。そこで引退を決断した。

 そこからは引退試合のあった11月10日までの間、9月は二軍で調整にあたり、10月に一軍昇格。ここからファンに感謝を伝えるための登板を繰り返した。その間もしっかりと調整し投げ続けた。

 迎えた11月10日(巨人戦=甲子園)。多くのファンが見守る中で0対4と負けてはいたが、9回に登板。マウンドではクローザーと正捕手として長年、一緒に戦ってきた矢野耀大監督が待っていた。笑顔でボールをもらい、抱擁を交わす。その最後のマウンドでは、打者3人に対し12球、2三振に斬って取った。常時140キロ台中盤。149キロも計測するなど12球すべて「火の玉ストレート」を投じた。その最後も笑顔。感謝の気持ちを、笑顔で表し、22年間のプロ野球人生に幕を下ろした。

写真=BBM
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