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日本シリーズで計430球の熱投 現役生活10年も強烈に輝いた「燕のエース右腕」は

 

93年日本一の前年に


1年目12勝、2年目15勝といきなり中心投手として奮闘した岡林


 野村克也監督率いるヤクルトが1993年に日本シリーズで西武を破ったのは、プロ野球の歴史で大きな出来事だった。西武は前年まで3年連続日本一。86年から就任した森祇晶監督は3位に終わった89年を除き、92年までリーグ優勝6度、いずれも日本一に輝いていた。黄金時代の西武がセ・リーグのチームに敗れたのは衝撃だった。

 だが、忘れてはいけない男がいる。その前年の92年。西武は4勝3敗で辛くもヤクルトを振り切って日本一になったが、1人の投手に苦しめられた。このシリーズで3試合完投して計430球を投げ、防御率1.50で敢闘賞を受賞したエース・岡林洋一だ。

 岡林はパラグアイの日系人移住地で生まれ育ち、中学3年時に高知県香美郡へ移り住む。高知商高に進学し、3年夏にエースで甲子園に出場。ベスト8に進出した。専大でもアマチュア球界を代表する右腕として名を馳せた。身長186センチの長身からワインドアップで右足のかかとを浮かすダイナミックなフォームで小気味よく投げ込む。145キロを超える直球、スライダーを武器に力でねじ伏せるタイプでなく、打たせて取る投球で制球力が抜群に良かった。

 ヤクルトにドラフト1位で入団すると、1年目から安定した投球で野村監督の信頼を勝ち取り、守護神に抜擢される。91年は45試合登板で12勝6敗12セーブ。新人王は中日森田幸一が獲得したが遜色ない活躍だった。

 92年は先発として稼働していたが、投手陣に故障者が続出したチーム事情で9月から抑えに回る。阪神と激しい首位争いが繰り広げられる中、同月11日の阪神戦(甲子園)では7回から登板し、延長15回まで投げ切り、9イニングを無失点で「完封」。10月に再び先発に回り、14年ぶりのリーグ制覇に大きく貢献した。34試合登板のうち、先発が23試合で12完投。15勝10敗、防御率2.97で投球回数は197だった。

 岡林はシーズン中から右肩に痛みを感じていたが、日本シリーズもひたすら投げ続けた。初戦を託されると延長12回を投げ切り、161球で3失点完投勝利。代打・杉浦亨の劇的なサヨナラ満塁本塁打を呼び込んだ。2、3戦目は連敗すると、4戦目の先発は中4日で岡林。秋山幸二のソロのみの最少失点に抑えたが、味方の援護がなく0対1で完投負け。109球の力投も報われなかった。

「中身の詰まった10年間」


92年の日本シリーズでは敢闘賞を受賞した


 崖っぷちまで追い込まれたが、延長戦にもつれ込んだ5、6戦目を制し、3勝3敗で日本シリーズは第7戦に。岡林は登板当日に先発を告げられた。1点リードの7回で投手の石井丈裕に同点適時打を浴びたが、心は折れない。その後も西武打線を抑えていたが、延長10回に秋山の犠飛で勝ち越しを許す。160球の熱投は報われずに敗れた。このシリーズで3試合完投、30回を投げて投球数は430球にのぼった。敗れたが、最強と謳われた西武を追い詰めたのは岡林だった。

 身を粉にして投げた代償は大きかった。93年は7月から戦線離脱し、西武を撃破した日本シリーズで登板機会はなかった。94年は11勝をマークも、95年から右肩痛との闘いでファーム暮らしが長くなる。6試合の登板で1勝のみに終わった00年限りで現役引退した。プロ2年目まで27勝をマークしたが、その後の8年間で計26勝。「精いっぱいやったので、確かに悔しい気持ちはありますが中身の詰まった10年間でした」と引退会見で言葉を紡いだ。

 プロ通算175試合登板で53勝39敗12セーブ、防御率3.51。現在はスカウトとしてヤクルトを支える。

写真=BBM
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