歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 移籍1年目の8月に
シュートを武器に強気の投球を見せた盛田
盛田幸妃が近鉄へ移籍したのは29歳になる1998年のことだった。ドラフト1位で大洋(現在の
DeNA)へ入団したのは、その10年前。なかなか芽が出ず、高校時代に死球を与えてしまったことで封印していたシュートを解禁したことで台頭した。盛田が「これさえ投げときゃ打たれないっしょ」と胸を張るシュートは、ストレート以上の球速が出るのも特徴で、厳しく右打者の内角を突くため、
中日と
巨人で対戦した
落合博満は「最もイヤな投手」を問われ、盛田の名前を挙げている。盛田は落合に「オレは他の3打席で打てばいいんだから。お前のときに(死球を)当てられたらどうするんだ」と言われたという。
大洋ラストイヤーの92年に
佐々木主浩との“ダブル・ストッパー”として投げまくり、規定投球回にも到達して最終的に14勝2セーブ、防御率2.05。キャリア唯一の2ケタ勝利に加え、同じく唯一のタイトルとなる最優秀防御率にも輝いている。この92年、落合は盛田に対して5打数で無安打。巨人の
原辰徳だけは10打数4安打と打ち込んだが、セ・リーグ各チームの中軸を担う右打者たちは、ほとんどが盛田を苦手としていた。
だが、チームが横浜となった翌93年からは起用法が安定せず、盛田は不完全燃焼が続く。そして、2年連続で開幕投手を任された97年オフ、
中根仁とのトレードで移籍することになった。新天地で盛田はリリーバーとして開幕から絶好調。4月までで8試合に登板して無失点、防御率0.00という快進撃で、心機一転、さらなる飛躍が始まったかに見えた矢先だった。8月、脳腫瘍が発覚する。
手術を受けて一命を取りとめても、野球選手として復帰できるかどうか分からなかったという。だが、盛田は9月に手術を受ける。皮肉にも、古巣の横浜は38年ぶりリーグ優勝、そして日本一に。交換相手の中根も併用ながら“マシンガン打線”の六番打者として貢献していた。一方の盛田は、野球どころではない状態からの復活を懸けて、リハビリの日々。問題は後遺症が残る右足だ。復帰には1年を超える時間を必要とした。右足首に特別な装具をつけて、ふたたび一軍のマウンドを踏んだのは、99年10月7日の
ロッテ戦(藤井寺)。6回表、リリーフカーに乗って盛田が登場すると、球場には一斉に“盛田
コール”が鳴り響いた。
不屈の男だったが、どこか不敵な男でもあった。そうでなければ死球も辞さずに内角を突くことなどできまい。そんな男の目には涙が浮かんでいた。脳裏に浮かんでいたのは家族や病院の関係者ら闘病、リハビリを支えてくれた人たちのこと、そして、こうして声援を届けてくれるファンのことだったという。盛田がベンチに戻るまで、ファンの歓声が途切れることはなかった。ただ、このときは打者2人に対して10球を投じ、一死を奪ったのみ。復帰しただけでも奇跡だったのは確かだが、盛田が完全復活を遂げるのには、まだまだ長い時間が必要だった。
減速したシュート
97年オフ、トレードで近鉄に移籍した
翌2000年は3試合に登板したが、2イニングで4失点と精彩を欠く。右足の後遺症もあって、ストレートよりも速かったシュートが減速してしまったのだ。20世紀のうちに、盛田の完全復活はならなかった。それだけではない。そのオフ、「オープン戦で結果が出なければ引退」と、最後通牒が突きつけられる。
高速シュートという“伝家の宝刀”を失った盛田だったが、それまで力まかせに投げていた部分があり、シュートにパワーがあったのも事実。インコースから、さらに右打者の内角へと食い込んでいったシュートは、たとえバットの芯でとらえられてもファウルとなり、これを打者がフェアグラウンドに入れようとすれば、たちまちバットが折れた。この荒業は、もう使えないのだ。
だが、完全復活を支えたのもシュートだった。球速は落ちたが、真ん中から鋭い変化で右打者の内角へと入っていく軌道のシュートで、それをゴロ狙い、ファウル狙いと投げ分けることで、迎えた01年には34試合に登板して、盛田にとっては初めて、近鉄にとっては最後の優勝に貢献。ファン投票で球宴にも出場し、古巣の横浜と、出身地の北海道にある札幌ドームでの登板も果たし、カムバック賞も贈られた。2試合に登板した翌02年オフに引退。「(01年オフに)給料が上がると聞いて思わず契約してしまいましたが、目標がなくなってしまった」と、盛田は笑った。
文=犬企画マンホール 写真=BBM