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プロ野球20世紀・不屈の物語

広島“赤ヘル”以前…山本浩二の前に“ミスター”と呼ばれた勝負強き“山本”とは?/プロ野球20世紀・不屈の物語【1961〜75年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「この人たちは絶対に裏切れん」


61年から広島でプレーし、通算で1308安打、171本塁打、655打点をマークした山本


 広島がチームカラーに21世紀の現在も続く赤を採用したのは1975年のことだった。戦争で原子爆弾を投下され、壊滅的な被害を受けた広島で、復興の象徴的な存在として2リーグ分立を機に創設されたものの、当初は資金難もあって優勝とは無縁。低迷に苦しみ続け、そのまま四半世紀が過ぎていた。72年からは3年連続で最下位。どん底で迎えた75年だったが、それまでの低迷が嘘のように広島は勝ち進む。いつしかナインは“赤ヘル”と呼ばれるようになり、彼らはセ・リーグを赤く染めあげるかのように奮闘。ペナントレース残り1試合となった129試合目で初のリーグ優勝を決めた。

 広島は79年からリーグ連覇、2年連続で日本一を飾って、黄金時代に突入。そんな時代に“ミスター・赤ヘル”と呼ばれたのが、終戦から約1年後に、地元も地元、広島市に生まれた山本浩二だった。現役を引退したのが86年で、プロ18年すべてで主軸を担って、優勝5度、日本一3度を経験。通算536本塁打はプロ野球4位として残る。ただ、広島の“ミスター”としては、初代ではない。まだまだ低迷に沈んでいた時代から“ミスター・カープ”と呼ばれていたのが山本一義だった。同じ山本で、やはり地元の出身、そして法大では在籍こそ重ならないが先輩、後輩の関係になる。

 広島商高3年で主将を務め、四番打者として春夏連続で甲子園に出場。そんな左の強打者を目に留めたのが、やはり広島県の出身でもある南海の“親分”鶴岡一人監督だった。法大へ進んだのも、鶴岡監督の「4年間、大学で野球を勉強してから(南海へ)入団しないか」という言葉があったため。法大でも4年の春に主将として優勝に貢献しているが、卒業してからの進路は広島ではなく南海に決まっていたのだ。そこで動いたのが広島の後援会長。このとき通産大臣を務めていた池田勇人だった。「故郷を忘れないでほしい。故郷を好きになってほしい。故郷を強くしてほしい」……相手が政治家、それも大物の中の大物といった存在ではなくても、「故郷のために」と言われて心が動かない人のほうが少ないだろう。これで山本一は広島への入団を決める。

「広島に帰ったら、汽車の時間を知っていたらしく、多くのファンが駅で出迎えてくれて『頼むぞ』と声援。この人たちは絶対に裏切れんと思い、涙が出た」という。のちに鶴岡監督に謝罪したときにも、責められるどころか「ワシのときは広島に球団はなかった。あったら、たぶん入っていたと思う。故郷を頼むぞ」と言われて、また涙。すさまじい期待と重圧を背負って入団したのが23歳となる64年のことだ。そんな地元の星に、多くの人が助言を送った。だが、すべてを聞いているうちに、打撃のリズムが崩れ、自分の持ち味を見失っていってしまう。

「この優勝で役割は終わったな」


広島が初優勝を飾った75年までプレーした


 低迷しか知らないようなチームとはいえ、プロはプロ。1年目から89試合に出場したものの、レギュラーは遠かった。道を開いたのは徹底的な練習。のちに変化球を打つことにかけては名人と称されるが、そのためのヒザの使い方を習得していく。「ヒザで粘るイメージ。これは瞬間的なことだから、無意識にできなければダメ。練習です」という。左翼の定位置をつかんだのは3年目の63年。やはり地元の出身で、広島の創設に参加して50年代の後半には監督を務めながら金策にも駆け回った白石勝巳監督が復帰したシーズンだったが、広島は最下位に転落する。

 四番打者に定着したのが65年。以降、いかにチャンスで打つかを考えるようになったという。だが、広島は創設して初めての単独首位に立つなど健闘したものの、最終的には5位に沈んだ。自身はプロとしての地位を確立しつつあったが、「故郷を強く」するのは容易ではなかったのだ。それでも勝利、そして優勝を目指して、プレーでチームを鼓舞し続けた。初めて打率3割に乗せた66年に初めてベストナインに輝き、広島も4位に躍進。最下位に沈んだ69年にも自己最多の21本塁打を放ってベストナイン選ばれている。1年目からレギュラーとなった山本浩と左中間を形成したシーズンだ。

 規定打席に到達したのは72年が最後。後輩たちにレギュラーの座を明け渡してからも勝負強さは健在だった。そして、広島の初優勝を見届けて引退。「いい選手が入ってきて、チームも強くなってきたし、この優勝で役割は終わったな、と思って。悔いはなかったですよ」。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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