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平成助っ人賛歌

引退寸前から日本で連続最多勝! 名門大学出の“精密機械”と呼ばれた投手とは/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

「アメリカ発、韓国球界経由、日本行き」


ヤクルト巨人ロッテと日本では3球団でプレーしたグライシンガー


 夢の球宴に限定40名様!

 2000年代中盤の『週刊ベースボール』には「MLBオールスターゲーム観戦ツアー」の広告が度々掲載されていた。例えば03年7月14日〜18日のオールスター観戦のみのAプランは旅行代金29万8000円。03年7月14日〜20日の球宴に加えて、シーズンゲーム1試合のBプランは32万8000円である。モハメド・アリが始球式を務めたこの年のオールスターには、マリナーズのイチローヤンキース1年目の松井秀喜がファン投票で選出され、日本での注目度も非常に高かった。

 01年のイチロー、03年の松井秀喜と平成を象徴するふたりのスーパースターのアメリカ行きは事件だった。日本の家庭にメジャー・リーグを爆発的に広めるキッカケとなり、新橋の居酒屋では仕事帰りのサラリーマンが、ジェイソン・ジアンビの筋肉やヤンキースの打順について酒を飲みながら語る……という今となっては意味のよく分からないメジャー・リーグ・バブルの到来である。もちろん野茂英雄のドジャース1年目も凄まじい盛り上がりだったが、投手とは違い野手は毎日のように試合に出る。同時に毎晩スポーツニュースのトップで扱われるのが、巨人戦の結果から大リーグのイチローやゴジラ松井の出場試合になったのも同時期だ。ファンの価値観からメディアとの関係性も含め、プロ野球界を取り巻く環境は激変しようとしていた。

 そして、彼らに続きNPB経由でMLB行きを目指す選手が増えたように、今では当たり前になった、KBO経由でNPBにやってくる選手が目立ちだしたのもこの頃である。「アメリカ発、韓国球界経由、日本行き」のルートで成功ケースとして真っ先に名前が挙がるのが、野手では03年に斗山ベアーズから横浜へ入団して日韓で本塁打王に輝いたタイロン・ウッズだ。以前に何度か日本球界に売り込んでいたが、「いくら韓国で活躍しても、日本では無理だろう」なんて冷たくあしらわれ、いずれ見返してやるぞとウッズは心に誓ったという。それくらい当時のNPB関係者で共有されていたKBOの評価は低かった。

 そして、投手の出世頭はセス・グライシンガーだろう。大学3年時にアトランタ五輪のアメリカ代表主戦投手として銅メダル獲得に貢献すると、デトロイト・タイガースのドラフト1位(全体の6番目)でプロ入り。2年目の98年にメジャーデビューを飾り、その年に6勝を挙げる順調なスタートを切るが、99年に右ヒジを痛め手術。3年半ほど満足に投げることができず、復帰後に1カ月ほどピッチングをするも今度は肩を故障してしまう。右肩の手術後は利き腕に激痛が襲い、マウンドからホームプレートまでさえ満足にボールが届かない。さすがにもう無理か……と諦めかけるが、しばらく何もせずに休んで気持ちを入れ替え、そこから地道なリハビリに耐えてカムバック。結局、5シーズン近く怪我で苦しみ、メジャー3球団を渡り歩くも結果は残せず、マイナー・リーガーとして三十路を迎えようとしていた。

日本で瞬く間にブレーク


来日1年目はヤクルトでプレーし、いきなり最多勝を獲得した


 何の仕事でも30歳にもなれば、ある程度は自分の可能性と将来が見えてくる。不確かな青春が終わり、リアルな人生が始まっちまう。当時所属していたブレーブスには好投手が揃い、メジャー枠が広がる9月まで昇格のチャンスはなさそうだ。もうマイナー生活にはうんざりしていた。そんな崖っぷち右腕が決断したのが、05年夏の韓国球界行きである。当初はバイト感覚で2、3カ月のプレーのつもりが、起亜タイガースでローテを任せられると、2年目の06年に14勝12敗、防御率3.02という好成績を残す。前半戦は4勝9敗と出遅れたが、後半は10勝3敗と巻き返し、投手不足に悩むヤクルトの目に留まった。

 とは言っても、年俸は格安の約40万ドル(約4000万円)。決して背番号29の戦前の期待値は高くなかったが、開幕から30イニング連続無四球を続けた抜群の制球力とテンポの良さは、“精密機械”と相手チームから恐れられる。140キロ台後半の直球に決め球のチェンジアップ。さらに日本の打者はバットに当てるのが上手いと気付き、ストライクゾーンの中で少しボールを動かすツーシームの配分を増やした。前半終了時で10勝2敗は巨人の高橋尚成と並びハーラートップタイ、防御率2.29と勝率.833もリーグ1位。オールスターには監督推薦で選ばれ、左の石井一久と並ぶヤクルト投手陣のエース格として瞬く間にブレークする。

 過去の故障経験から体には気をつかい、練習後のケアだけでなく、電気治療器はこだわりの品を韓国から持ち込んだ。一見、神経質そうに見えて、好きな日本語は「ショウガナイネ」(もちろん食べ物の生姜とは関係ない)。趣味は世界中をひとり旅で、インド、タイ、トルコ、中国、ポルトガル、オーストラリアなどを回ったという。『週刊ベースボール』08年7月7日号の独占インタビューでは、日本の生活や文化を饒舌に語っている。

「休日を有効に使うためには、体を休めることが一番なんだけど、やっぱり新しい街を散策するのが好きだからね。好きなエリアは麻布十番かな。ラーメンも好きなので、常に新しい店を探している。いま、お気に入りのラーメン屋は新宿にある。できれば、ゴルフもやりたいんだけどね」

「まずいろいろな違いを理解して、その国の文化に敬意を表さなければいけない。また、フィールド上では練習のときなど、とにかく自分の感情は抑えたほうがいいね。静かにして、周りの人がどういうルーティンで練習をするのか、どういうふうな動きをするのかなど、さまざまなことを観察して、それに従っていく。とはいえ、ゲームになると、自分が今までやってきたことを大切にしたほうがいいね」

最後はロッテでプレー


ロッテでは外国人初のセ・パ12球団からの勝利をマーク


 どこか心の余裕すら感じさせる背番号29は、07年シーズンにリーグトップの209回を投げ、16勝で最多勝に輝いた。しかし、チームは最下位に沈み、古田敦也兼任監督は辞任と現役引退を表明する。皮肉にもグライシンガーは活躍しすぎてしまったことにより、評価と年俸が急騰。オフには複数球団の大争奪戦となり、08年から2年総額5億円の大型契約で巨人への移籍を決断する。ちなみにこの年の巨人はグライシンガーだけでなく、アレックス・ラミレスマーク・クルーンと同リーグの助っ人を立て続けに引き抜き。エース、四番打者、クローザーのすべてを移籍の外国人選手で補う前代未聞の仁義なき大型補強を敢行した。

 巨人1年目のグライシンガーは期待どおりに17勝で勝ち頭となり、2年連続の最多勝に200投球回を達成して原巨人のV2に貢献。翌09年も13勝を挙げたが、古傷の右ヒジを痛めてからは精彩を欠き、12年には初のパ・リーグとなる千葉ロッテへ移籍。ひとり旅を好むジャーニーマンは、3年ぶりの完封勝利や外国人投手初のセ・パ12球団からの白星と37歳にして復活を果たし、12勝8敗という成績を残した。
 
 NPB在籍8シーズンで通算139試合64勝42敗、防御率3.16。日本に来てから相手打者の反応やコーチの助言を忘れないようメモを取り始め、異国の地での成功につなげた。名門バージニア大学で金融学を学んだ“インテリジェンス・モンスター”は、学生時代から数学が得意で分析はお手のものだ。なおロッテ時代、実際にベンチで使用しているデスノートじゃなくて、「セスノート」が球団公式グッズ化され、発売初日に完売している。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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