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プロ野球回顧録

優勝逃して涙を流した人格者 メジャーで本塁打王獲得した「近鉄の助っ人」とは

 

異国の地でも真摯な姿勢で


80年にメジャーで本塁打王に輝いたオグリビー。87年、近鉄に入団した


 メジャーで現役バリバリの選手が来日するケースは幾度もあった。だが、メジャーで本塁打王を獲得し、日本でプレーした選手は非常に珍しい。近鉄のベン・オグリビーだ。

 パナマで生まれ育ったオグリビーは71年にレッドソックスでメジャーデビュー。タイガースで77年に21本塁打をマークした。同年オフにブリュワーズに移籍すると、不動のレギュラーとして活躍。80年に打率.304、41本塁打、118打点で本塁打王を獲得した。アメリカン・リーグで米国国籍以外の選手が本塁打王に輝いたのは史上初の歴史的快挙だった。82年も34本塁打を記録するなどメジャー通算16年間で通算打率.273、235本塁打、901打点。86年オフに近鉄入団が決まると、日本球界は騒然となった。

 開幕直後に無断帰国した際は球団をヒヤヒヤさせたが、オグリビーはメジャーのプライドを鼻にかけることなく、日本の野球に適応しようとする人格者だった。内野へのボテボテのゴロでも必死の形相で全力疾走を怠らない。来日した時は38歳だったため全盛期より衰えていたが、ミート能力とバットコントロールのうまさが光った。110試合出場で打率.300、24本塁打、74打点。グリップを極端に後方に構えてバットを何度も回す独特のルーティンが話題になり、当時の野球少年たちがこぞってモノマネしていた。

 80年代当時は日本野球を軽視するような態度をとる外国人選手が少なくなかった。その中で、メジャーで抜群の実績を誇り、異国の地でも真摯な姿勢で取り組むオグリビーは模範となる存在だった。近鉄で同僚だったラルフ・ブライアントはオグリビーの前では直立不動になり、尊敬の念をこめて「サー」と呼んでいた。他球団の外国人選手もオグリビーの前では「イエス、サー」と返事している。エースだった阿波野秀幸は「『イエス。サー』なんて言葉は映画の中でしか聞いたことがなかった。彼はパナマの英雄なんですね」と感心していた。

 選手からもファンからも愛されたオグリビーは責任感が人一倍強かった。来日1年目は最下位に終わり、2年目の88年。5月12日のロッテ戦で守護神・牛島和彦からサヨナラアーチを打った際に派手なガッツポーズを繰り返した。「自分が打ったからうれしいのではない。日本に来た1年目の昨年はどういうわけかチームが低迷して、自分も責任を感じていた。しかし、今年はみんなが頑張っているのですごく張り合いがある。いい野球をさせてもらっているよ」と理由を明かした上で、「興奮してガッツポーズをして、彼(牛島)に失礼なことをした。申し訳ない」と謝罪。実直な性格を物語るエピソードだ。

チームに植え付けた高いプロ意識


巧みなバットコントロールで日本でも結果を残した


 同年は8月以降に近鉄が首位・西武を驚異的なペースで追い上げる。オグリビーも9月に4試合連続アーチを放つなど月間MVPを獲得し、打線を牽引した。そして、プロ野球の歴史に語り継がれる最終戦の「10.19」。川崎球場で行われた最終戦・ロッテ戦は勝てばリーグ優勝が決まる試合だったが、試合時間が4時間を超えたため時間切れにより、延長10回で4対4の引き分けに。オグリビーはホテルのトイレで涙を流していたという。誰よりも近鉄を愛していた主砲だった。

 88年は114試合出場で打率.311、22本塁打、65打点。同年限りで近鉄を退団し、メジャー復帰を目指したが叶わず、現役を引退した。近鉄は翌年の89年に西武、オリックスとの熾烈な三つ巴を制し、9年ぶりのリーグ優勝を飾っている。オグリビーがチームに植え付けた高い意識が結実した瞬間だった。

写真=BBM
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