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プロ野球回顧録

野村ヤクルトで伸び悩みも、オリックスで大活躍した「シンカーの使い手」は

 

オリックス移籍で開花


オリックスで中継ぎとして優勝に貢献した鈴木


 プロ野球はアマチュア球界で飛び抜けた素質を持った選手たちの集まりだ。その能力を発揮できるかどうかは環境にも大きく左右される。ヤクルトで伸び悩んだがオリックスで覚醒し、リーグ連覇に大きく連覇した鈴木平はその典型的な例だろう。

 静岡県磐田市で生まれ育った鈴木は出生時の体重が3950グラムと大柄だった。小6のときに市内のソフトボール大会で投手を務めて優勝したのをきっかけに、少年野球チームに誘われて軟式野球を始める。草薙球場でキャンプを行っていた大洋(現DeNA)の選手が実家の飲食店を訪れていたことから、エースとして活躍していた斉藤明雄とキャッチボールをする機会があり、プロ野球選手を目指すようになった。

 その後、東海大一高に進学すると2年秋でエースに。3年夏にはエースで四番を務めたが、4回戦の東海大工戦で3点リードの9回裏二死と勝利目前から失策が重なって逆転負け。甲子園出場は叶わなかった。だが、プロのスカウトは鈴木の「クセ球」に注目していた。小学生のころから手のひらと球の間に隙間ができる自己流の握りだったため、直球がナチュラルに変化してツーシーム気味になっていたのだ。この球がカーブなどと誤解され、変化球が禁止されている少年野球の大会では登板できないことも。ドラフトではヤクルト、阪急(現オリックス)、広島の3球団が3位指名で競合。抽選で当たりクジを引いたヤクルトに入団する。

ヤクルト時代の鈴木


 プロ1年目の88年は一軍登板なし。直球が140キロ前後で決め球になる変化球もなかったため、オーバースローからサイドスローにフォーム改造を決断する。89年は8月17日の阪神戦(神戸総合運動公園)でプロ初先発初勝利を飾ると、中2日で登板した8月20日の広島戦(神宮)でプロ初完封勝利と頭角を現す。このとき、まだ高卒2年目。若手の成長株として期待されたが、度重なる故障や同じサイドスローだった高津臣吾の活躍もあり、ファーム暮らしが長くなる。制球難だったこともあり、野村克也監督の信頼を得られなかった。94年オフに山内嘉弘との交換トレードでオリックスに移籍する。

 ここで鈴木は大化けする。仰木彬監督、山田久志投手コーチは鈴木の能力を高く買い、制球難でも我慢強く起用し続けた。野村貴仁とともにセットアッパーを務め、50試合登板で2勝4敗3セーブ、防御率1.83の大活躍でリーグ優勝に貢献。日本シリーズで対戦した古巣のヤクルト戦でも3試合登板で打者13人を無安打に抑える完ぺきな投球を見せた。96年も守護神を務めるなど、55試合登板で7勝2敗19セーブ、防御率2.43。日本シリーズ・巨人戦でも1勝3セーブを挙げて日本一に貢献した。

手元で鋭く落ちる武器


最後はダイエーでプレーしてユニフォームを脱いだ


 鈴木の生命線は投球全体の7割を占めるシンカーだった。直球と変わらない140キロ近い球速で打者の手元で鋭く落ちるため、バットに当てることもままならない。直球がシュート回転するクセ球のため、打者は投球の軌道で球種の見分けがつかず手を焼いた。右肩、右ヒジ痛を発症した時期もあったが体も心もタフだった。オリックス在籍5年間で計234試合登板。中日、ダイエー(ソフトバンク)を経て02年限りで現役引退した。通算成績は296試合登板、27勝20敗36セーブ、防御率3.11。

 鈴木は引退後、故郷の磐田市で整体・カイロプラクティックの「タイラ治療院」を開院。地元の高校野球のコーチ、野球解説などの活動もしている。昨年2月11日に野村克也監督が逝去した際は自身のブログで、「野村監督が亡くなられたと。自分は野村監督の下では全然戦力にはならなくて、申し訳かったが自分の野球人生には、物凄く大きな影響を頂きました!!野球を深く、根拠を持ってプレーしなさいと!今、自分が指導者になって野村監督のミーティングが非常に役にたっています!ありがとうございました。ご冥福をお祈り致します。ありがとうございました」とつづっている。謙虚な姿勢で野球に取り組み、感謝の気持ちを表現できる。この性格も新天地で大輪の花を咲かせた大きな要因だろう。

写真=BBM
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