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亡くなられた千葉功さんの『記録の手帳』第1回再録/追悼企画

 

現代のヒーロー稲尾、あらゆる記録を塗り替える金田


左が国鉄・金田、右が西鉄・稲尾


 パ・リーグの元記録部長であり、本誌に1961年から2897回にわたり「記録の手帳」を寄稿いただいた千葉功さんが、1月26日、脳出血のため死去した。85歳だった。
 野球が大好きで、お酒が大好きで、おしゃべりが大好きな方だった。謹んでご冥福をお祈りします。

 今回は、千葉さんが1961年1月4日号に寄稿された連載第1回を再録してみたい。当時のタイトルは「記録の手帖から」で、千葉さんの署名は入っていなかった。
 ネットで調べれば、すぐ記録が出てくる時代ではない。千葉さんの連載を読むために『週刊ベースボール』を購入されていた方も多かったと聞く。

 テーマは「記録からみた投手の第一人者は」。以下、文章はそのまま掲載するが、選手名のみ加筆し、初出をフルネームにさせていただいた。

 まず最高記録の保持という点で、史上の投手の筆頭にあげられるのは別所毅彦であろう。
 十七年という長いプレート生活は、別所をして、戦前より引きつづいて活躍している唯一の選手にしてしまった。
 試合数、完投数、投球回数に最高の数字を並べた成果は、最高の勝利数という記録になってあらわれている。
 この別所の“最高勝利数”への挑戦こそ、ことしのプロ野球にかけられた記録更新の最大の呼び物であった。
 昭和十八年四月十八日の対朝日戦に初勝利を飾って以来、常に南海、巨人といった上位チームに所属する有利な条件にも恵まれたので、二十二年以降十年間も連続して6割台の勝率を保持する輝かしさであった。
 それが三十三年にいたって快腕にも衰えはおとずれたものか、はじめて9勝という一ケタの勝利数に終わってしまい、“記録”を狙う者の焦りも手伝って“35試合登板要求”という、前代未聞の契約条件を呈示し話題をさらったのも、この年のシーズン・オフだった。
 昨年、巨人の残り試合があと5試合という瀬戸際になって、ようやく7勝目を掌中にし、故スタルヒン投手の記録と肩を並べられる通算301勝で、新記録の樹立を三十五年に持ちこしたのだった。
 したがって、ことしの四月二十九日におさめた待望の今季初勝利は、そのまま“記録更新”につながった。“新記録の意識”という重圧から解放されたその後の別所は、老カイなピッチングに捨てがたいところをみせ、首位大洋に対しての3勝が含まれている9勝をあげて、自己の通算勝利数を310にまで伸長した。

 藤本英雄野口二郎若林忠志、スタルヒンといった投手連が表(投球500回以上の防御率ランキング表が掲載されていた)の上位に顔を並べているのは、戦後も彼等の勇姿をマウンド上に眺められる機会はあっただけに、若いボール・ファンにもうなずかれられようが、森弘太郎の上位進出は奇異の目で迎えられるかも知れない。
 しかし、十五年から十七年にかけての三年間で1000イニング以上を投げて、その間に77勝をあげ、防御率1.17であったという破天荒な記録を紹介すれば、戦前のマウンドのヒーローとしての森の姿を想像していただけよう。
 またこの森と同じ十二年間のプロ生活でありながら、その間実に517試合に登板、238勝を記録した野口の鉄腕ぶりにも注目したい。
 とにかく、投手に連投をしいることが当然と思われていた頃に、最盛を誇った投手であったからこそ作れた記録なのである。
 それはプロ一年目にして、早くもセネタースの96試合のうち69試合に登板を余儀なくされ、459イニングを投球し、33勝をあげた時にはじまり、十七年には66試合に登板し、528イニングスを投げるという現在では想像も及ばぬ成績の集積なのである。
 また藤本が200勝、若林が1000三振と、記録がきちんとした“終止符”を打てたのは長く活躍したマウンドを去るにあたって、何よりの贈物となったはずである。
 ただこれら投手連の最盛期といったものが、いずれも戦前から戦後も二リーグ分裂前にいたる間であったことは注目すべきことである。
 やはりボールにもいまのような反発力がなく、それに打撃力も進歩していなかった投手偏重の時代であったことが、幸いしていることは見逃せぬ事実であろう。

 それだけに、現在のマウンドのヒーロー稲尾和久が、1.58という圧倒的に優秀な防御率でトップにランクされているのは驚異的といえるものだ。
 まだ実働年数が少ないだけにいちがいに前記の投手連と同一の目で比較はできないともみられるが、それは反面、わずか五年でここに顔を出すにいたったというのは、とりもなおさず酷使されたことを意味するものであって、入団以来、西鉄の試合の45パーセント強に登板をしいられたという酷使にもかかわらず、このような抜群の好成績をあげられたという点に、いっそうの価値があるともいえる。
 稲尾はスタートから驚異的なペースで記録街道を進んでいる。 
デビューした年には21勝6敗、防御率1.06で新人王、そして防御率第一位投手、翌三十二年には35勝6敗、防御率1.37で最高殊勲選手、最優秀投手、防御率第一位投手、三十三年には33勝10敗、防御率1.42で、最高殊勲と、最優秀、防御率第一位の三つのタイトルを獲得するといったぐあい。
 その稲尾もことしのすべり出しは芳しくなく、シーズン当初にはヒジを痛め、それが治ったとたんこんどは左親指を骨折してしまい、プロ生活で初めて試練に立たされ、けっきょく前半戦は5勝4敗の成績にとどまってしまった。
 しかしオールスター戦以降15勝3敗をマークし、念願の五年連続20勝を成就してしまったあたり、並々ならぬ底力の程をうかがわせるものである。
 この稲尾の好成績の背景となるもの……それは出塁を許すのが少ないというところにあるもので、一試合平均の安打数が6.4、そして7.1三振を奪うという剛球投手でありながらも無類の制球力をしめす2.1に過ぎない四死球数が、それを端的にしめすものだ。また戦後派投手の双璧として稲尾とともに当然金田正一の名もあげられる。

 三位になったことがないという、万年Bクラスの国鉄に在籍すること十一年で254勝、すでに別所の投手寿命に先が見えているだけに、近い将来、別所の保持する最多勝利の記録を更新する最右翼といったところだ。
 ことしも20勝を記録。入団二年目の二十六年来の連続十年20勝の偉業を達成した。
 しかしこの金田が身上とするものは、なんといっても長身から投げ下ろす速球にある。
 その一試合平均の三振奪取数7.6は、他投手の追随を全く許さぬものであり、そのハイ・ペースはスタルヒンが十九年かかって樹立した記録を八年半ばにして更新してしまい、ことしはとうとう3000ラインも突破し、他を大きく引き離し、この部門のトップに立っている。
 こうなると、ウォルター・ジョンソンの保持する3497三振奪取への挑戦だけが残された課題。その成就すらも300個たらずでかなえられるのだから、金田の実力をもってすれば、文字どおり世界の三振奪取王になれるのも時間の問題となってくる。
 この金田について、さらに見逃せぬことは、近年になって彼が防御率を意識するようになってから、その成績にはっきりと向上の跡をみせていることだ。
 すなわち、二十九年までの通算防御率は2.89。人間的にも成長し、名実ともに日本一の地位に君臨するようになった三十年以降の成績は1.91と、格段の進歩を遂げている。
 早くも明年はプロ生活十二年目を迎えるとはいっても、いまだ二十八才の若さ。近い将来投手の記録は、金田の手でまた更新されよう。 
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