週刊ベースボールONLINE

平成助っ人賛歌

阪神を支えたタフネスエース、メッセンジャーの意外な“パワーの源”とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

人生に必要なことはすべて……


阪神で2019年まで10年間、先発として活躍したメッセンジャー


「モヤシなし、ネギ抜きでお願いシマス」

 その外国人投手は、来日してかなり早い段階でこの日本語を覚えたという。好きな具材は、フライドガーリック(ニンニクチップ)とスピニッチ(ほうれん草)。もやしを入れるとせっかくのスープの味が損なわれてしまうからノーサンキュー。初めての店を訪れた際、メニュー写真がない場合はすでに食べているお客さんのラーメンボウルを素早く観察し、モヤシやネギ、さらに生タマネギやメンマといった苦手な具材が入っていないか瞬時に見極めオーダーする。集中力と判断力が問われる緊張の瞬間だ。遠征で訪れる土地のラーメン屋はこまめにリサーチするが、グルメサイトの星の数はあくまで参考程度にとどめ、最後はたくさんのラーメンを食べ歩いてきた自分の勘を信じる。

 信じるのは己の集中力と判断力、それに経験と勘。なんだかよく分からないが凄い、まるで人生に必要なことはすべてラーメンから学んだ男。そんな元阪神の助っ人エースは自著『ランディ・メッセンジャー すべてはタイガースのために』(洋泉社)の中で、日本で出合ったこのソウルフードについて語り尽くしている。2010年から19年までの在籍10シーズンで7度の2ケタ勝利を記録した背番号54は、先発前日は必ずラーメンを食べていた。甲子園の選手プロデュースメニューはもちろん豚骨醤油ラーメンだ。「メッセ盛りで」と注文すると麺とチャーシューが2倍の大盛仕様で出てくる。

 そんな身長198cm、体重109kgのラーメンボディを誇る巨漢右腕は、リトルリーグ時代はショートを守り、アメフトやバスケットにも熱中する典型的なアメリカのスポーツ少年だった。父親の仕事の関係で小学校の低学年だけでも6度も転校したという。メッセンジャーの新しい環境への適応力、郷に入れば郷に従え、異国の地のラーメンも恐れず音を立てて啜る……という生きる上での柔軟なスタンスの原点には、幼少期の度重なる転校体験があったのではないだろうか。

 日本へ行く前年は、シアトル・マリナーズに在籍。MLB複数球団を渡り歩くも、07年の60試合をピークに年々登板数は減少し、中継ぎ投手としてなかなか定着できず、メジャーの夢と3Aの現実との狭間でくすぶっていた。そろそろ野球選手としてはリタイア後の第二の人生も考える年齢だ。当時28歳のメッセも己の未来に不安を抱く。しかも、1人目の子どもが生まれたばかり。妻のお腹には2人目の子もいて、まだまだ稼ぐ必要があった。3Aの打撃コーチをしていたアロンゾ・パウエル(元中日)から日本行きを勧められたり、9月のメジャー昇格後にバッテリーを組んだ城島健司は、クラブハウスで通訳を含め話した際に「おまえにその気があるならNPB球団に推薦するぞ」とまで言ってくれた。

「明日から、先発をやります!」


メジャーでもチームメートだった城島(右)とお立ち台へ


 のちに『週刊ベースボール』で外国人選手としては初めて、『Messe's Road』という連載コーナーを持つことになるが、その中で「日本でプレーする外国人の選手たちの中の99.9%は、早い時期にメジャーに復帰したい、もしくはメジャーに再挑戦したい、という気持ちで来日していると思うんだ。僕も、最初のうちはそうだった」と告白している。

 しかし、阪神入団直後の10年シーズンは、慣れない日本の軟らかいマウンドに戸惑い、リリーバーとして結果が残せず4月後半にはもう二軍落ち。鳴尾浜球場で若手選手たちと練習していると、さすがに強い危機感を抱く。おいおいオレは日本に来てもまたマイナー生活じゃねえか……と。後がなくなったメッセンジャーは、パワーで押すより低めに細かい制球力を身につけることを意識し、久保康生投手コーチから「縦のカーブを取り入れ配球に緩急をつける」ことを助言されると素直に従ったという。

 幸運なことに、しばらくすると一軍の先発枠に空きが出た。6月のある日、首脳陣に呼ばれ先発転向を打診されたメッセンジャーは、「明日から、先発をやります!」と快諾する。なぜなら、それ以外に阪神で生き残る術はなかったからだ。これまで、二軍落ちに自暴自棄になったり、起用法を巡り「契約時の話と違うぜボス」なんて首脳陣批判をかまして数カ月で帰国した助っ人選手は数多い。だが、メッセンジャーは現実を受け入れた。ウエスタン・リーグで5試合の先発調整を経て、7月に一軍再昇格すると、14試合で5勝をマーク。アメリカ時代からバッテリーを組む城島が、その年から阪神で日本球界に復帰していたことも追い風となった。無事2年目の契約を勝ち取り、そこから外国人投手で初めて8年連続の規定投球回到達(13年、14年、16年はリーグ最多投球回)を成し遂げることになる。

 最高時は年俸3億5000万円と十分な契約を用意してくれた阪神に感謝するのはもちろん、日本球界の慣習も気に入っていた。先発登板の間に1度休日が入り、登板しない日のチーム練習後、自分の練習や、次の登板へ向けての準備が終わりさえすれば帰宅できる。いわゆる「あがり」という日本独特のシステムのおかげで、4人の子どもたちともゆっくり過ごす時間ができた。来日後数年は精神的に不安定なときもあったが歳を重ねる内に落ち着き、良きパパで体がデカくて気のやさしいラーメン大好きアメリカ人……と思いきや、一方で誰よりも激しく熱いハートも併せ持っていた。

 メジャー時代にサンフランシスコ・ジャイアンツへトレードされた直後、ロッカーで通算762本塁打の超大物バリー・ボンズがわざとぶつかって押してきたことがあった。要は新入りに対するチームの顔からの洗礼だ。しかし、そこでメッセはひるむことなく、押し返した。軽く驚くボンズに「あなたはすごい選手で、尊敬しているけど、オレも男だからね!」と挨拶し、その様子が気に入られ話すようになったという。

球団初の外国人で引退試合


2019年9月29日、甲子園で行われた引退試合でファンに挨拶


 17年8月10日の巨人戦では阿部慎之助の打球が右足に直撃し、右足の腓(ひ)骨骨折。残りのシーズンは絶望視されたが、サンフランシスコで手術をして8月27日には再来日。右足にはプレートを支える5本のボルトが埋め込まれたままで10月10日に一軍復帰。阪神はその年2位だったが、DeNAとのクライマックスシリーズにも先発登板してみせた。まさに絶対的なエースであり、大黒柱である。練習では、阪神の若手選手たちへキャッチボールやランニングの重要性を熱心に説く姿もよく見られた。自著の中でその理由をこう書く。

「(タイガースのヤングマンたちは)オレの話を聞いても、もうひとつピンとこないかもしれない。それはわかる。なぜなら自分も若い頃、そうだったから。でも、ある日を境に『あっ! メッセはあのとき、このことを言っていたのか!』と思う日が来ると思う。そして、理解する時期は君たちがユニフォームを着ている間であってほしいんだ。時間は待ってくれない。だから口うるさいかもしれないけど、言い続けるよ」

 そして、阪神投手陣を支えた男はふと過去を振り返るのだ。日本に来たときはまだ28歳。まさか、自分が若い選手にこんなことを言うおじさんになるなんて、あの頃は想像できなかった、と。気が付けば、目の前には夢中でころがりやっとつかんだ記録の数々が並んでいる。

 通算263試合、98勝84敗、防御率3.13。最多勝1回、最多奪三振2回。通算1475奪三振は外国人史上1位。2ケタ勝利7度、2ケタ奪三振24度は外国人投手最多である。さらに5年連続を含む6度の開幕投手を務めた。まさに2010年代を代表する先発投手のひとりである。あの外国人選手初の沢村賞を獲得した虎の先人、ジーン・バッキーが持つ通算100勝超えも確実視されていたが、3勝に終わった19年限りで、右肩痛を理由に「“その時”が来た」と惜しまれながら引退を表明。奇しくも外国人枠を外れた自身10年目のシーズンだった。9月29日には甲子園で引退試合とセレモニーを開催。なお85年の歴史を持つ球団史において、引退試合で送り出された外国人選手は初めてである。28歳の青年は38歳のベテラン投手となり、チームメートから胴上げされ、10年間にわたる長い日本生活に別れを告げた。

 ちなみにこれはこのコラムで最も重要な情報だと思うが、メッセンジャーが一番気に入っているラーメン屋は、横浜の『吉村家』だという。ほかにもおいしい家系ラーメンは各地にあるが、味が微妙に変化することがある。でも吉村家はそれがまったくない。いつ行っても同じスープ、同じチャーシュー、同じ卵、同じホウレンソウ。まったくブレてない。信じられへん、まさしくプロの味だ。

「いいかい、キミも吉村家のラーメンのような安定感のある先発投手を目指すんだ!」

 そう遠くない未来、タイガースのヤングマンたちにそう熱血指導する、メッセ投手コーチを見てみたいものである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング