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【MLB】野球の発展に貢献し続けた親善大使

 

生涯、野球の発展に尽くしたラソーダ氏。常にラソーダ像を崩さず、その役割を最後まで全うした


 トミー・ラソーダ氏が心臓発作で、93歳で亡くなった。思い出すのは1996年7月、同氏が20シーズン務めたドジャースの監督職を退いたときのことだ。6月25日、胃潰瘍(かいよう)かと思い、自ら運転してセンチネラ病院で診断してもらったところ、心臓発作からくる痛みだと判明。急きょ血管形成手術を受け入院。退院後も、即座の現場復帰についてはドクターストップがかかっていた。

 本人は68歳だったが復帰する気満々。あと4年は続け、前任者ウォルター・アルストン監督の23シーズンを抜きたかった。しかしながら当時のピーター・オマリーオーナーらに、体を大事にしたほうが良いと説得された。当時、ドジャースは心臓発作で大切な仲間を失っていた。87年7月、ドン・マクマホンコーチが打撃練習で投げている途中で心臓発作になり、57歳で帰らぬ人となった。

 93年、殿堂入り投手、ドン・ドライスデールはテレビの野球解説者で、モントリオール遠征に同行していたがホテルで亡くなっているのが見つかった。56歳だった。

 ラソーダ氏は「ドジャーブルーの血が流れている」の名セリフで知られるが、激情家で時に大爆発を起こす。60代後半になっても試合前の打撃練習で打撃投手として投げ、試合後にパスタなどを腹いっぱい食べるなど、体に負担の多い生活だった。

 運良く手術はうまく行き、体重も9キロ絞り、コレステロールの数値も下がった。オマリーオーナーは、これからは現場を退き、親善大使として野球の発展、普及に貢献してくれればと考えたのだろう。ラソーダ氏はまさに野球に人生を捧げた人だった。1949年にドジャースに入団。もっぱらマイナー暮らしで、ドジャースのメジャーで先発したのは1試合だけ。8試合登板13イニング、11失点の成績が残っている。1年だけアスレチックスで投げたがそこでも0勝4敗。メジャーで1勝もできなかった。

 61年にドジャースのスカウトに就任、コーチを経て、65年にマイナー球団の監督。77年から96年がドジャース監督。2度の世界一を成し遂げた。地区1位か2位のシーズンが13度あり、毎年のように優勝を争った。若手を上手に抜てきし、野茂英雄ら8人が新人王に輝いている。

 当時のロサンゼルスではラソーダが監督を辞めるというのは信じられないことだった。実際親しい関係者は「トミーは野球場で死ぬ男、引退なんて考えられない」と話していた。趣味はなく、ゴルフもスキーもテニスもギャンブルもしない。野球だけの人生だった。だから監督勇退後は、健康に気を配りつつ、親善大使として球界の発展に大きく貢献した。

 野茂がドジャースに入団したとき、息子のように温かく接し、守り立てたのは有名だが、日本人だけでない、世界中の野球関係者を励まし続けた。90歳になってもドジャー・スタジアムに頻繁に顔を出し、クラブハウスで若手を激励、シャンパンファイトにも参加した。筆者は2000年のシドニー五輪の前に、チームUSAの監督としてインタビューさせてもらったのが初めてだったが、以後も何度も話す機会をいただいた。

 体が衰えても、話しを向けられるとトミー・ラソーダとして期待される役割をきちんとこなす姿は立派だった。ドジャースは昨年、32年ぶりに世界一に輝いたが、良い冥土の土産になったのだと思う。

文=奥田秀樹 写真=Getty Images


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