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プロ野球回顧録

来日1年目で本塁打王 好きな食べ物が「ワニ」の長距離砲は

 

メジャー通算256本塁打の大砲


89年、ヤクルトで来日1年目に本塁打王を獲得したパリッシュ


 本塁打か三振か――当たればどこまでも打球が飛んでいった。来日1年目に本塁打王。好きな食べ物は「ワニ」と答えるなどグラウンド内外で話題を振りまいたのが、ヤクルト、阪神でプレーしたラリー・パリッシュだ。

 狭いスタンスの静かな構えから力強く踏み込んでフルスイングする。直球には滅法強いが、外角に逃げる変化球はからっきしだった。巨人のエースだった斎藤雅樹が大の苦手で、2年間の対戦成績は32打数3安打で打率.094、0本塁打、19三振。ストライクからボール球になるスライダーにバットがクルクル回り、苦虫をかみつぶした表情でベンチに引き上げる。斎藤が登板する際はスタメンを外れることも。豪快な打撃と脆さが同居していたが、決してミート能力が低いわけではない。

 プロ入団2年目の1974年に同僚の元巨人・クロマティとともにエクスポズでメジャー昇格し、翌75年から三塁のレギュラーに。79年には打率.307、30本塁打をマークしている。ところが、81年に本塁でもクロスプレーで左ヒザじん帯断裂。その後は患部に特注のサポーターで固定してプレーする。

 その後もメジャーで活躍し、レンジャーズ時代の87年には32本塁打をマーク。ヤクルトに入団したのは88年オフだった。メジャー15年で通算256本塁打と飛び抜けた実績だったが、左ヒザの手術歴が3度あり来日当時35歳だったことから、年俸は65万ドル(約9100万円)プラス出来高と決して破格の条件ではなかった。身長190センチ、体重99キロの大男は入団会見で好きな食べ物を聞かれ、「フロリダでは普通に食べるワニの肉だ」と返答。当時日本でワニを食べることは考えられなかったため、物珍しさから「ワニ男」とメディアで取り上げられて話題になった。東京都内を探し回ると1軒だけワニ肉を提供する店があり、通ってスタミナをつけたという。

 関根潤三監督の下、5月に打率.343、11本塁打、20打点で月間MVPを獲得するなど、長距離砲の看板に偽りなしだった。気性の荒い一面も。三振するとベンチ裏で暴れるため、いつでも蹴り飛ばせるスポンジ製「ラリー君人形」が設置されていた。死球を受けた際は激高して乱闘騒ぎになったことも。だが、ユニフォームを脱げば穏やかな性格だった。神宮球場と広尾の自宅を自転車通勤する姿と愛くるしい笑顔ですっかりファンの心をつかんでいた。

古傷の左ヒザが限界に


阪神でも快調に本塁打を量産したが……


 巨人・原辰徳、阪神・セシル・フィルダー中日落合博満らと激しいタイトル争いを制し、打率.268、42本塁打で本塁打王に。来日2年目もヤクルト残留が確実視されたが、新たに就任した野村克也監督が129三振と大振りで粗かった打撃スタイルを嫌がった。戦力構想から外れる事態になり、翌90年は阪神に移籍。新天地で夏場から調子を上げ、前年と同様に中日・落合とタイトル争いを繰り広げる。だが、古傷の左ヒザが限界を超えてしまった。補強器具をつけているためじん帯の痛みがひどく、体重移動がスムーズにできない。

 当時の週刊ベースボール掲載のリポート記事によると、8月25日からのヤクルトとの3連戦を最後に途中退団することで球団と話がまとまったという。3戦目の27日に「申し訳ないが、もうプレーできない」と涙を浮かべながらナインに別れの挨拶。29日に球団事務所で会見を開き、「8歳からずっと野球をやってきたボクにとって野球は人生そのもの。しかし、内角の速いボールを打てなくなったときに、もう現役としてやっていけないと思った」と現役引退を発表した。

 この時点で、リーグトップの28本塁打を放っていた。残り試合も30試合を切っていたためそのまま代打などでプレーする選択肢もあったが、プロ意識が高い長距離砲は万全に程遠い状態で打席に立つ自分が許せなかったのだろう。来日通算235試合出場で打率.260、70本塁打、183打点。ファンの夢を乗せて特大の一発を打ち続けるホームランアーチストだった。

写真=BBM
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