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プロ野球回顧録

練習で2万人のファンが…トレード拒否し、29歳で現役引退 通算51勝挙げた巨人のドラ1右腕は

 

6年目にプロ初勝利


女性ファンから人気抜群だった定岡


 全盛期の人気はジャニーズ顔負けだった。登板試合は、平日開催のファームのデーゲームにもかかわらず1万5000人の観客がつめかけた。多摩川グラウンドの練習には2万人のファンが駆けつけたことも。端正な顔立ち、華やかな雰囲気で当時の女子中高生から抜群の人気を誇った。元巨人定岡正二だ。

 定岡は兄の定岡智秋、弟の定岡徹久もプロ野球選手になっている。地元・鹿児島で「定岡3兄弟」は有名だった。鹿児島実高に進学すると甲子園に2度出場。3年夏に圧巻の投球を見せる。2試合連続完封を飾り、2学年下の原辰徳擁する東海大相模高戦では延長15回で213球を投げ抜いてベスト4に。長嶋茂雄監督が新監督に就任した巨人からドラフト1位指名されると、球界を背負うスター候補として多くのメディアに取り上げられた。

「多摩川ギャル」から黄色い声援が飛んでいたが、一軍定着の道は遠かった。プロ5年目まで未勝利。同年秋に行われた伝説の伊東キャンプにも腰痛で参加できなかった。1学年上の江川卓、同期の西本聖は一軍で活躍していただけに焦りはあっただろう。だが、新球のスライダーを習得して野球人生が変わる。「僕はずっと真っすぐとカーブで、ファームでもずっとそれでやってきた。ほかの球種なんて、教えられたこともないし、投げようとしたこともなかった。それが、80年(9月4日)、甲子園での阪神戦で、ストレートの握りをちょっとずらしたら、少しスライドして打者が「あ〜」っていう顔をして見送った。その反応を見て、使えると思ったんだよね。」。

 80年6月5日の中日戦(ナゴヤ)で一軍初勝利を挙げると、その後も先発ローテーションに定着して9勝をマーク。翌81年は江川、西本と「先発三本柱」を結成し、11勝を挙げて8年ぶりの日本一に貢献した。勝ち星の半数を超える6勝が2位の広島からと内容も濃かった。82年は自己最多の15勝を挙げ、広島戦が7勝と相変わらずのキラーぶりを発揮。

「キヌ(衣笠祥雄)さんも浩二(山本浩二)さんも、どんどん振ってきたけど、僕はいつも真ん中勝負だった。外なんか狙わない。ド真ん中だし、僕は150キロの球があるわけじゃないから、打者は踏み込んで、『おいしい球をありがとう』みたいな顔して打ちにくるけど、そこから少し曲げ、芯を何ミリか外せばフライになったり、ゴロになったりする。しかも、打者は『なんでこんな甘い球を打てないのか』って顔をして、次の打席も同じように振ってくるでしょ。コースを狙うよりも真ん中から散らすほうが有効だなと分かってから勝てるようになったね」と振り返っている。

 83年以降は腰痛、右ヒジ痛と度重なる故障に加え、斎藤雅樹宮本和知など若手の台頭もあり、先発、ロングリリーフをこなす立ち位置に変わる。85年は47試合すべて救援登板で4勝3敗2セーブ。この年限りで現役引退するとは誰も想像できなかった。

85年には47試合に救援登板も……


82年には自己最多の15勝をマークした


 シーズン最終戦の阪神戦。試合を終えて球場を引き揚げようとした定岡に、岩本尭渉外補佐が声をかけた。「オイ、定岡。明日ヒマだったらメシでも食わんか」。待ち受けていたのは近鉄へのトレード通告だった。定岡は首をタテには振らなかった。悩んだ挙句、通告から数日経った10月29日にトレードを拒否して現役引退を決意していることを表明。31日に長谷川実雄球団代表に呼び出され、正式に近鉄へのトレードを伝えられたが、定岡は「それなら退団する」と譲らない。11月2日、再び長谷川代表から説得を受けたが拒否し、最後は任意引退となった。

 29歳の若さでスター選手が現役引退を決断した一連の騒動は、大きなニュースとなった。定岡は週刊ベースボールの企画で川口和久篠塚和典の両氏と対談した際にこう語っている。「当時はいろいろ言われたけど、近鉄がどうこうというわけじゃないですよ。何で俺を出すんだと思って、そっちです。だってさ、グッチ(川口)、5年で50勝近くした投手を出すか? それで、もういいや、俺の野球は終わりにしよう、と思ったんだ」。

 現役引退を発表した翌86年、ドジャースのアイク生原オーナー補佐の紹介で、打撃投手としてドジャースのキャンプに参加している。

「あのとき、ジャイアンツをやめた後、ミスターに言われて、ドジャースのキャンプに参加することができたんですよ。ドジャースにいたアイク(生原)さんに連絡してくれてね。あれがあったから野球を嫌いにならなかったと思う。あれで、きっぱり現役と縁が切れた」、「振り返っても、すごくぜい沢な環境だったと思いますよ。ピッチャーはバレンズエラ、ハーシュハイザーとか超一流選手がいて、彼らと一緒に一軍扱いでやっていたんだから。それで意外と僕のスライダーが通用したんですよ。ゲーム形式で5イニングくらい抑えた後、ラソーダ監督から『サダオカ、お前、アメリカに残れ』と言ってもらったこともある。あれは、ほんとうれしかったな。全部、ミスターのおかげです」と長嶋茂雄巨人終身名誉監督への感謝を口にしている。

 現役引退後はバラエティ番組に引っ張りだこの時期があったが、野球評論家に軸足を置いて活動している。現役生活11年間で通算215試合登板、51勝42敗3セーブ、防御率3.83。人気面が取り上げられるが、きっちり結果も出した実力派右腕だった。

写真=BBM
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