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パンチ佐藤の漢の背中!

「野村さんは南海からデータ野球」パ初代セーブ王・佐藤道郎が語る野村克也、張本勲、稲尾和久、王貞治……/パンチ佐藤の漢の背中!

 

元南海ホークスのリリーフエースにしてパ・リーグの初代セーブ王の佐藤道郎さんは現在、東京・学芸大学駅近くで会員制スナック「野球小僧」を経営している。コロナ禍で営業も大変な状況だが、パ・リーグ関西球団出身の「佐藤」の後輩として、パンチさんが陣中見舞いに訪れた。
※『ベースボールマガジン』2020年9月号より転載

球を低く、低く投げれば給料は高く、高くなる


佐藤道郎氏(左)、パンチ佐藤


 日大2年秋のシーズン。佐藤道郎は4勝1敗の成績だったが、チームは最下位に終わった。日大硬式野球部創立初の、不名誉な成績だった。東都リーグ二部で戦った3年春。東農大グラウンドへ試合に行くと、馬術部の馬の“落とし物”をうっかり踏んづけてしまう。

「ここはダメだ。絶対一部に上がって、神宮で試合をしよう」

 一致団結し、一部昇格。4年の春、秋と連続優勝し、全日本に選ばれた。台湾で行われたアジア選手権では、MVPを獲得。このとき初めて、「これでドラフト2位か3位までには入るかな」と思ったという。

パンチ 南海にドラフト1位指名。当時は野村克也監督でしたよね。

佐藤 まさか1位にかかるとはねえ。野村さんが兼任監督になって、初のドラフト会議。だから指名後、自らウチまで挨拶に来てくれたんですよ。

パンチ 「球が遅い」と言われましたけど、じゃあ何がすごかった、何が負けていなかったんですか?

佐藤 低くコントロールできていたね。俺、投手コーチになってから選手に聞いたもん。「お前、148キロ(の速球)を持っていて、なんでフォアボール出すの?」って。バッターは速い球を怖がるのにね。

パンチ 僕が社会人時代、「ミスター社会人」といわれるピッチャーと対戦したとき、球は遅かったんですが、とにかく低めに来たんですよ。初球、アウトコース低めに来て、「これ打ってもレフト前ヒットだもんな」って見逃して1ストライク。2球目もまた「今打ってもレフト前ヒットだな」という球が来て、見逃す。そのあともそこから落としてみるとか、絶対高いのは来ないんですよ。ボックス内の前方に歩いて打ったこともあります。やっぱり低めに投げられると、バッターは2ストライクまで見てしまう。佐藤さんはそういうピッチャーだったんですね。

佐藤 打ったらもったいない、もっと甘い球が来るんじゃないかって思うでしょう(笑)。だからコーチのとき、選手に言ったんだよ。「ピッチャーは低く、低く投げたら、給料は高く、高くなるよ」って。それが合言葉(笑)。

野村兼任監督(左)と現役時代の佐藤氏


パンチ 佐藤さんが現役当時のパ・リーグは豪快な感じの、すごいバッターが多かったですよね。記憶に残る対戦やバッターというと?

佐藤 東映なら張本(張本勲)さん、大杉(大杉勝男)さん、白(白仁天)さんとかね。

パンチ 張本さんは今、「喝!」で有名ですが、実際対戦してみた感じではどんなバッターだったんですか?

佐藤 いいバッターなんだけど、インコースに弱いんだよ。俺のとき、野村さんが監督兼キャッチャーだったでしょ。野村さんがインコースに極端に寄って構えるもんだから、張本さんに隠れちゃってミットが見えないんだ(笑)。それで1年坊主のとき、大阪球場でリリーフに出ていってぶつけて、後楽園でプロ入り初先発のときにまた2回ぶつけてね。張本さんがマウンドに向かって声を荒げて、「てめえ、この野郎、大杉のほうがお前のこと打ってるだろう!」って(笑)。

パンチ 遠回しに、ぶつけるなら大杉さんのほうだろう、と(笑)。対張本さんはどうだったんですか?

佐藤 どうだったかなあ。(対戦成績は)あまり気にしないんだよ。逆に10打数1安打でも、いいところでポテンヒットになったことなんかは、ずっと残っているんだけどね。

パンチ 南海での一番の思い出は?

佐藤 73年に前期優勝してプレーオフで阪急に勝って、日本シリーズに出たときかなあ。あのときの阪急は、本当に強かったんだよ。後期は(南海が阪急に)12敗1分けだったからね。「おい、何日の阪急戦、谷間なんだけど誰か投げてくれないか?」って言ったって、誰も手を挙げない(笑)。そこで野村さんが、「阪急戦に勝ったら賞金20万」って決めてね。他のチームの倍。みんなダメ元でもって、手を挙げるようになった(笑)。

パンチ 野村さんはそういう柔軟なところもあったんですね。僕は野村さんといえばデータ野球と、江夏(江夏豊)さんを抑えに転向させるとき「革命を起こそうや」という言葉のうまさなんかがまず思い浮かぶんですが……。

佐藤 南海のころから、野村さんはデータ野球だったのよ。まあ、監督として花開いたのは、ヤクルトに行って専任監督になってからだったけど。江夏が江本(江本孟紀)と交換で阪神から来たとき、野村さんは左の先発が欲しかったんだね。だけど江夏が持病を抱えていて、長いイニングは投げられないと分かった。それで当時リリーフだった俺が監督室に呼ばれてね、「ミチ、お前先発したいって言ってたよな」と。あの時代は先発で長いイニング投げないと、給料が上がらないんだもん。うれしかったよ。その年(77年)、12勝挙げちゃった。

パンチ いい思い出ばかりですね。僕、社会人時代に大阪球場で試合をしたことがあるんですよ。劇場のようにパーンッと音が反響していたのを覚えています。あれはいい球場でしたね。

佐藤 すり鉢型だったからね。俺が入って3年だったかな、日本一広い球場になったんだよ。外野フェンスを7メートルぐらい後ろにした。それまでは一番狭い球場でね、中西(中西太=西鉄)さんなんかバットが折れたのにスタンドインしちゃったって逸話まであったよ。

管理野球がイヤで大洋を選んだら……


大洋時代の佐藤氏


パンチ さて、その南海から79年、セ・リーグの大洋に移籍したときはどうでしたか?

佐藤 今だから言えるけど、南海で功労があったからと、代表と次期監督の広瀬(広瀬叔功)さんに呼ばれてね。「今、巨人と大洋から(トレードの)話が来ている。選んでいいぞ」と。巨人は長嶋(長嶋茂雄)さんで管理野球。みんなに注目されるし、イヤだなと思って。「じゃあ大洋に行かせてください」って言ったの。昔、ガラッパチのイメージがあったから。そうしたら別当(別当薫)監督、超管理野球だった(笑)。

パンチ 別当さん、メガネのCMをやっていましたね(笑)。野村さんは管理野球ではなかったんですね。

佐藤 南海のときはキャンプの食事中、野村さんの前で「すみません、日本酒ください」とか。ウイスキーまで頼んでも平気だったからね。それが大洋に行ったら、夜「一人ビール1本まで」って言われてね(笑)。マネジャーに「ビールを飲むとメシが食えなくなっちゃうんで、ワインでもいいか、監督に聞いてもらえますか?」って言って、「ワイン1本ならいい」と許可してもらった。若いヤツに1本別に隠しておかせて、2本飲んだら、別当さんに「佐藤、お前、1本だって言ってるだろう」って怒られた。しっかり見てやんの(笑)。

パンチ(笑)。そこからどうして2年で引退になってしまったんですか?

佐藤 肩を壊しちゃったんだよ。5月まで2勝2セーブかなんかで結構調子が良くて、「セ・リーグは人気だけだな」ぐらいに思っていたんだけど。地方遠征の負けゲームで雨の中、「佐藤に投げさせてないから投げさせろ」ってんで行ったら、3ランを打たれちゃってね。調子のいいときに6点も7点も開いた雨の中で投げさせられて、こっちからしたらバカ言ってんじゃないよって感じだったんだけど、怒られたから「抑えればいいんだろう」って力んだら、フォームを崩してしまってね。それで肩をやっちゃった。

パンチ 振り返れば、どういう野球人生でしたか。

佐藤 自分のことを褒めていますよ。133、4キロしか出ないのに、野村さんのところで6つ賞を取らせてもらって。ただ親に丈夫な肩をもらったんだから、もうちょっとランニングしておけばあと12勝、100勝できたかなとは思うけど(笑)。

 80年シーズン限りで引退後の3年間は、テレビ東京と報知新聞で評論家。テレビ東京では夜10時半から、“日本で一番早い”プロ野球速報番組に出演していた。それを見た稲尾和久さんが84年、ロッテ監督就任時に佐藤さんを一軍投手コーチとして招聘。まったく縁のなかった稲尾さんに「俺が監督をやるときは、お前と一緒にやりたいと思っていたんだ」と声を掛けられ、二つ返事で引き受けた。

 以降、2006年まで評論家を挟みながら中日、近鉄で投手コーチ、二軍監督を歴任。現在、東京・目黒で経営する会員制スナック「野球小僧」には稲尾さんをはじめ、ユニフォーム時代に交流した名選手、監督たちとの思い出の品が並ぶ。

「結果論を言わない」がコーチとしての信条だった


84年、ロッテ・稲尾監督(左)が就任すると、誘われて佐藤投手コーチも誕生する


パンチ 稲尾さんは、佐藤さんのどこを買ってくださったと思いますか?

佐藤 俺もそう聞いたら、「俺の知らないことを(番組で)しゃべってる」って言ってたね。食事方法から、リリーフの心構えについて話したりしていたから。

パンチ 当たり前の、プレーの話だけでなくてね。例えばリリーフの食事については、どんな話をしたんですか?

佐藤 俺は早い回のリリーフだったら、絶対カレーは食わない。上がってきちゃうから(笑)。でも後半のリリーフだったら、かつ丼と天ぷらそばと2種類食っても消化できるから大丈夫、とかね。稲尾さんは俺より10歳年上だから、好きなもの食べて投げていた人だったんだよね。

パンチ 僕、今もそういう話が聞きたいですよ。投手コーチになるときは、どういうコーチ像を心に描いていらしたんですか?

佐藤 僕は野村監督に、「結果論を言わない」指導者像を教わったんですよ。南海時代、主軸の門田(門田博光)がランナー一塁からエンドランのサインで2ランを打って、罰金を取られたことがあってね。結果オーライだっていうんなら、エンドランをかけた意味がない。野村さんはゴロを打ってほしかった。うまくいけば一、三塁になるからね。エンドランのサインでダメなのはライナー、フライ。だから“フライ”を打った門田は罰金なの。そういうところ、野村さんは厳しい人だった。ピッチャーで言うなら、ランナー一塁でゲッツーを取りたいときにゴロを打たせるでしょ。ところがゴロを打たせたんだけど、たまたま野手の間を抜けてしまった。そういうときは、「お前、惜しかったな。正面だったらゲッツーだったぞ」とね。自分とこのピッチャーにはそういう話をしていたね。

パンチ その後、ユニフォームを脱いで、このお店を始めるまでの経緯を教えてください。

佐藤 最後、中日の落合(落合博満)に呼ばれて二軍監督を3年間やったんだよ。2006年にユニフォームを脱いだの。2、3年遊んでいたら、どこかから投手コーチの話が来るんじゃないかと思っていたら、来なくてね。報知新聞の評論も来なくなっちゃって。この店はもともとママさんが一人でやっていて、俺はたまに前の嫁さんと一緒に来ていたの。そうしたら、ママさんがもう辞めると言うんで、俺が引き継ぐことにしたんですよ。

パンチ どうして「野球小僧」という名前にしたんですか?

佐藤 ユニフォームを着ていたころ、遠征先でこの名前の店を見て「いい名前だな」と思っていてね。自分が店をやるなら「野球小僧」にしようって決めていたの。もう11年になるよ。

パンチ 11年というと、オープンして3年後に東日本大震災があったわけですね。あのときはどうだったんですか。

佐藤 ダメだったねえ。でも最初のころは、まだユニフォーム時代の貯金がちょっとはあったから。

パンチ まあ、どっしり行こうぜという感じだったんですね。

佐藤 今も大変だけどね(苦笑)。

パンチ どれくらいの年齢層のお客さんが多いんですか?

佐藤 40歳代以上が多いね。「小さいとき、親父に大阪球場に連れて行かれてミチさんを見てました」ってお客さんもいるんだよ。

「詞が好きなんだ」と言ってカラオケの歌を選んだ王さん


パンチ お店の壁の一番目立つところに、王(貞治=現ソフトバンク会長)さんのサインがありますが、王さんがいらしたんですか?

佐藤 近所の歯医者の先生が、王さんを連れてきてくれたんですよ。入ってくるなり、「佐藤君、いい名前を付けたね。俺も“野球小僧”だったから」って言ってくださってね。

パンチ 王さんが何を飲んで、どういう歌を歌うのか気になります。

佐藤 王さんは薄めのハイボールだったかなあ。それからも何回か来て下さってね、歌が好きで、7、8曲歌ったんじゃなかったかな。八代亜紀さんとか、ちあきなおみさんとか。あんまり流行った曲ではなかったけど、「詞が好きなんだよ」って言ってたな。

パンチ そもそも王さんとはどういう仲だったんですか?

佐藤 仲というかねえ……。俺がプロ1年目にオールスターに選ばれて、大阪球場で挨拶したのが最初。王さんがたまたまこっちを見たから、「こんにちは!」って言ったら、「佐藤君、調子よさそうだね」って、肩を叩いてくれてね。うれしかったなあ。

パンチ それで、食事に行かれたとか?

佐藤 いや、それは全然なかった(笑)。73年の日本シリーズで南海が巨人と対戦して負けたってぐらい。だけどその後、王さんが巨人の監督になったとき、ちょうど俺が『週刊プレイボーイ』で自分のコーナーを持っていてね。それで編集長に「みっちゃん、飛び込みでグアム(キャンプ)に行って取材してきてよ」って言われてね。

パンチ うわあ、いい時代ですね。

佐藤 王さんに挨拶したら、「佐藤君、どうしたの? 今日、何かあるの?」と。で、「こういうページなんですけど、話を聞かせていただけませんか?」と言うと、「じゃあ練習終わったら、ホテルのプールサイドに来て」。

パンチ それまた、いい時代ですね。今じゃあ、考えられないですよ。

佐藤 王さん、「日本シリーズで佐藤君から3ラン打ったの、スライダーだったよね。あれは俺、うまく打ったんだよな」とか覚えていてくれて。いやあ、すごい人だなって思ったよ。

パンチ それから何年もして、またお店まで来てくださるのもすごいですね。

佐藤 そうそう。だから、「壁にサイン、お願いします」って(笑)。

パンチ こちらは会員制ということですが、僕も会員になれますか?

佐藤 もちろん、ウエルカムだよ。それで、パンチ君が誰かつなげて連れてきてくれれば、そのお客さんも会員になるからね。

パンチ なるほど。

佐藤 以前は俺がつまみとか鍋とか作っていたんだけど、俺が作ると金がかかるからって、もう食べ物は持ち込みにしてもらっているの。すぐ近くにスーパーもあるからね。で、入場料3000円、ボトルは芋焼酎の「鉄腕伝説 稲尾和久」が4000円。

パンチ 細かい水や氷は?

佐藤 いちいち付けていられないから、込みにしてますよ(笑)。

パンチ 今、お店をやっていて一番楽しい、やりがいを感じていらっしゃるのはどんなときですか?

佐藤 やっぱり、お客さんが来てくれたときだね。いつもだいたい夕方5時に店を開けるんだけど、今年(20年)はお客さんが入らない日もあってね。するとずっと一人で、誰ともしゃべらないのよ。もう9時半だから、閉めようかなって、ここで少し飲んで、タクシーに乗って、家の場所を運転手さんに告げるぐらい。だから、お客さんが来て、「また来ます」って言ってもらえるのが、何よりうれしい。

パンチ こう言っては恐縮ですが、70歳の男性が一人でやっていらっしゃるお店としては、かなりきちっとしたお店ですよね。いろんなところに飲みに行っていると、たまに「ここじゃあ、人は来ないな」という負の空気を感じるお店があるんです。でもここは間違いなく、陽の風が流れていますよ。

佐藤 本当? それはうれしいねえ。ありがとう。

パンチ 僕もまた来ます!

パンチの取材後記


 佐藤さんは、今の選手たちからいえばひと昔、ふた昔も前の野球選手。頑固一徹なサムライたちの中で生きてきた人なんだけど、僕のイメージしていたとおり柔軟な発想を持った、優しい語り口の方でした。この年代の方が今の選手を教えるのはなかなか難しそうですが、佐藤さんなら選手の個性を見ながら教えられるんじゃないかな、と。本文で紹介しきれなかった指導法を聞いて、思いましたね。

 佐藤さんとご縁のあった監督たち、どうでしょう? 今の若いコーチからは学べない引き出しがたくさんあって、ピッチングだけじゃない、ハートの部分も教えてくれる“育成のプロ”がここに一人、いらっしゃいますよ。

 佐藤さんのユニフォーム姿を楽しみにしつつ、あの“陽の風”をいただきに、そして佐藤さんの素敵なお話と「鉄腕伝説 稲尾和久」を味わいに、また「野球小僧」のドアを開けてみたいと思います。

●佐藤道郎(さとう・みちお)
1947年5月5日生まれ、東京都出身。日大三高から日大に進学し、4年の春秋とMVPを連続獲得。ドラフト1位で70年南海に入団すると18勝6敗、防御率2.05で新人王と最優秀防御率。74年には7勝8敗13セーブでこの年から制定された初代セーブ王、防御率1.91で2度目の最優秀防御率。76年には2度目のセーブ王。79年に大洋移籍、80年限りで引退。実働11年、500試合、88勝69敗39セーブ、防御率3.15。引退後はロッテ、中日、近鉄でコーチ、二軍監督を歴任。現在は会員制スナック「野球小僧」を都内で経営。発売中の書籍『ノムさんへの手紙』(ベースボール・マガジン社刊)で野村克也氏と縁があった教え子の1人として登場。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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