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プロ野球回顧録

台湾出身で活躍したパイオニア 来日通算100勝100セーブで絶大な人気を誇った中日助っ人右腕は

 

闘志を前面に押し出す投球スタイル


日本球界に適応し、見事な成績を残した郭


 義理人情に厚く、誰からも愛された。台湾出身の選手として日本のプロ野球で道を切り拓き、中日で来日通算100勝100セーブを達成した郭源治だ。

 郭はアミ族の父・クムン(郭文志)と母・ブタル(林愛妹)の7人兄弟の3男として生まれた。台湾原住民族のアミ族は身体能力が高いことで知られる。郭も運動神経が良く、小3から野球を始めると、小6のときにリトルリーグの台湾代表チームで世界一に輝いている。兵役中の81年1月に社会人野球の選手を主体にした日本代表との対戦で完封勝利を収めると、ロッテなど日本の複数球団が獲得に名乗りを上げる。郭が選択したのは中日だった。契約金1250万円、推定年俸最低保証額の240万円と決して好条件ではなかったが、「一番、熱心に誘ってくれたから、そこがいいかな」と決断したという。

 異国の地で活躍することは簡単ではない。言葉が通じないためストレスがたまり、台湾よりはるかに複雑なサインプレーの説明を聞き取れず何度も罰金を取られた。来日1年目は1勝のみ。だが、日本の文化に適応しようと必死に努力する真面目な性格が実を結ぶ。翌82年に9勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、83年から4年連続2ケタ勝利をマーク。86年は開幕投手を務めるなど信頼を勝ち取った。

 最速151キロの威力十分の直球に加え、スライダー、シンカー、フォークと変化球の質も高い。闘志を前面に出す投球スタイルが持ち味で、派手なガッツポーズは「郭ダンス」と称されてファンの心をつかんだ。投球以外の能力も高かった。俊敏な動きでフィールディング能力は球界屈指と評価が高く、打っても野手に劣らない打撃センスで88年5月13日の巨人戦(ナゴヤ)で槙原寛己からサヨナラ2ラン本塁打を放っている。

 落合博満をトレードで獲得し、守護神の牛島和彦がロッテに移籍した87年には守護神に抜擢される。当時の抑えはロングリリーフで登板することも珍しくなかった。同年は59試合登板で4勝3敗26セーブ、防御率1.56で最優秀救援投手に。ファイアマン賞の賞金100万円は感謝の意味を込め、中継ぎの宮下昌己にプレゼントした。翌88年は弟が7月に交通事故で亡くなり悲しみに暮れたが、61試合登板で7勝6敗37セーブ、防御率1.95で2年連続最優秀救援投手を獲得。投球回数は111イニングとタフだった。

中日退団後は台湾球界へ


先発、抑えの両方でチームの力となった


 30代後半を超えても、郭のパフォーマンスは落ちない。先発転向した91年に自己最多タイの13勝を挙げると、38歳の94年に100勝100セーブを達成。8勝7敗2セーブ、防御率2.45で最優秀防御率のタイトルを獲得した。

 台湾球界に恩返ししたいという理由で、96年限りで退団。中日で16年間の活躍を称え、セ・リーグから会長特別賞が送られた。来日通算496試合登板で106勝106敗116セーブ、防御率3.22。台湾に復帰後も98年に先発で11試合連続勝利するなど14勝を挙げ、99年も42歳とチーム最年長で9勝を挙げた。台湾代表に選出されたシドニー五輪の最終予選でも決勝リーグ・韓国戦に先発し、5回2失点と力投を見せた。

 台湾、日本を愛した男は95年1月に阪神・淡路大震災が発生した際、被災者に500万円を寄付している。また、現役引退後は亡くなった弟と将来台湾料理の店を開く約束を果たし、名古屋市内で「郭源治 台南担仔麺」を開いた(現在は閉店)。日本のプロ野球で成功しただけでなく、人格者として多くの人から尊敬される選手だった。

写真=BBM

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