3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 カーブしかない!
今回は『1972年7月10日号』。定価は100円。
球界の「骨皮筋衛門」と呼ばれていたのが、身長177センチ、体重60キロの左腕、阪神の
権藤正利だ。
1972年6月10日、甲子園での
巨人戦。1対0から先発の谷村智博がつかまり、1対2と逆転され、なお一死満塁に、この権藤が登板。
打席には三番・
王貞治、ネクストは
長嶋茂雄がいた。
まさに絶対絶命だ。
権藤は、自分の球威の落ちた真っすぐでの勝負は難しいだろうと考え、得意の大きなカーブの連投しかないと決めていたという。
権藤は小学生のとき小刀で左手人差し指を切り、第2関節が曲がったままだった。よく「この指の曲がりがあるからカーブが曲がった」と言われたが、実際は逆で、この指を使わぬように投げるとよく曲がったという。
1球、大きなファウルがあった。スタンドは騒然としたが、権藤の表情はまったく変わらず、最後は空振り三振に打ち取った。
権藤は柳川商1年生のとき、小児麻痺で1週間40度の高熱が続き、一時左半身が麻痺。幸い完治はしたが、体が一気に痩せてしまった。
53年、洋松ロビンス入団。1年目から15勝で新人王になったが、55年から空前の28連敗を喫した。57年連敗を止めた試合ではナインが胴上げをし、権藤は大粒の涙を流した。
その後、東映を経て65年阪神に移籍。この年は20年目だった。
話を戻す。二死満塁から長嶋は内野ゴロ。その裏、味方が逆転し、権藤は勝ち投手になった。
長嶋は、
「20年前の新人王、さすがですね」
と称賛した。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM