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プロ野球回顧録

24歳でクビも…バッティングセンターに通い詰めて球界代表する強打者になったのは

 

入団から6年で戦力外も


ダイエー時代の山本


 球界広しといえども、バッティングセンターの住み込みで働いてプロに返り咲き、しかもパ・リーグを代表する強打者になったケースは皆無に近いだろう。近鉄、南海、ダイエーでプロ通算1400安打を積み重ねたカズ山本こと、山本和範だ。

 戸畑商高(現北九州市立高)を経て、ドラフト5位で投手として77年近鉄に入団。入団直後に野手転向し、ファームで3年連続打率3割をマークするが、一軍では6年間の在籍で計6安打のみと結果を残せず82年限りで戦力外通告を受ける。野球をあきらめて故郷の福岡に帰ることも考えたが、近鉄時代の同僚・久保康生に紹介されたバッティングセンターでアルバイトしながら練習し、球界復帰を目指すことにした。

 山本に救いの手を差し伸べたのは、南海だった。当時の穴吹義雄監督が近鉄の二軍で山本が非凡な打撃を見せていたことを評価し、83年に入団。ここからサクセスストーリーが始まる。84年に右翼の定位置をつかみ、打率306、16本塁打をマーク。打撃だけでなく、日本記録タイとなる1試合3補殺を記録するなど外野からの強肩と正確な送球も大きな武器だった。85年には130試合フル出場を果たし、86年にゴールデン・グラブ賞を獲得する。

 自己最多の21本塁打を放った88年オフに南海は球団をダイエーに譲渡。本拠地が大阪から福岡に移転すると、地元出身の山本は絶大な人気を誇った。「アイドルでいえばデビュー曲が売れなかったということ。それが南海“パイオニア”グループに入ったら売れてきて、ダイエー“コロムビア”グループに入ったら飛ぶように売れてしまったわけ(笑)」と山本は当時の人気を振り返っている。ダイエーでも主力として活躍し、シーズン途中にカズ山本の登録名に変更した94年は「バントをしない二番打者」として話題に。自己最高の打率.317で当時オリックスイチローと首位打者を争う。年俸は2億円に到達した。

 しかし、95年に右肩の亜脱臼もあって46試合の出場に終わると、38歳という年齢と高年俸がネックとなり自由契約に。入団テストを受けて96年に近鉄に入団する。背番号を南海、ダイエー時代の「29」を逆にした「92」に変え、登録名を本名に戻して再起を誓う。移籍後初出場した西武との開幕第2戦で西口文也から代打アーチの華々しい移籍デビューを飾ると、佐々木恭介監督は本塁生還した山本を最敬礼で迎えた。勝負強い打撃でチームに貢献し、ファン投票で初出場した球宴では阪神藪恵壹から古巣の福岡ドームで決勝アーチを放つ。MVPに選ばれると、「まさか打てると思ってもいませんでしたし、まぐれですよ」とお立ち台で涙を流した姿が感動を呼んだ。

自身が持っていた引き際の美学


引退試合では見事に決勝アーチを放った


 バット1本ではい上がった男は最後も強烈な輝きを放つ。99年は一軍出場がなく、球団から引退勧告を受けたが、現役続行を宣言。9月30日のダイエー戦(福岡ドーム)は事実上の引退試合だったが、山本の思いは違う。近鉄だけでなく、ダイエーのスタンドから応援歌が流れる中、シーズン14連勝中の篠原貴行に土をつける決勝アーチを放ち健在ぶりを証明した。

 若いときに大きな挫折を味わった山本は引き際の美学があった。「僕は野村(克也)さんみたいに、ボロボロになるまで、というのにあこがれた。たった1つの才能を簡単に捨てたらイカンよ」。獲得に名乗りを上げる球団は現れず、現役引退を決断するが、最後のアーチは何度も挫折からはい上がってきた山本の生き様を象徴する一発だった。

 42歳のシーズンまでプレーし、プロ通算1618試合出場で打率.283、175本塁打、669打点。山本は90年代半ばにイチロー(当時オリックス)とともに「バッティングセンターで育ったプロ野球選手」として業界団体から表彰されることとなったが、「僕のほうがバッティングセンターで育てられた」と辞退。業界団体側のプレゼンターとなった山本が、イチローへの表彰を行っている。謙虚でファン思いの苦労人。南海、ダイエー、近鉄だけでなく、多くの野球ファンから愛された。

写真=BBM
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