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プロ野球回顧録

野村克也監督も「投げるところが見つからない」と感嘆した3年連続首位打者の中日助っ人は

 

来日3年目に打撃が開花


卓越した打撃技術で3年連続首位打者に輝いたパウエル


 卓越した技術に支えられた右打ちと、時に見せる特大アーチでファンを魅了したドラゴンズの安打製造機がアロンゾ・パウエルだった。外国人選手初の3年連続首位打者に輝くも、同時期に連続首位打者の記録をスタートさせたイチローオリックス)の存在もあり、その活躍度の割にいまひとつ注目度に欠けた“不運”の男でもある。

 1992年5月に中日に入団。来日当初は内角直球や外角の変化球に苦しむ姿が目立ち、試合のビデオを自宅に持ち帰り毎夜のように見入った。その研究熱心さは徐々に効力を発揮し、同年は88試合の出場で打率.308の好成績。翌93年は4月18日に浜松で行われたヤクルト戦の試合終了後、ベンチで転倒し、左ヒザ半月板損傷のアクシデントに見舞われるも、97試合の出場でリーグ3位の.317と成績を上げた。

 オフにヒザの手術をして迎えた94年。広島前田智徳と競って打率.324で初の首位打者を獲得。絶妙の右打ちも話題になった。翌95年も2位のローズ(横浜)に4分の大差をつる.355で2年連続のリーディングヒッターに。得点圏打率.382も光った。そして96年は球団記録まであと1本に迫る176安打を放ち、.340で3年連続首位打者に輝いた。

 偉業達成の裏には、外国人打者の多くが苦手とする内角球、自身も来日当初は苦しんだそのボールに、内側からうまくバットを出す技術を習得したことが大きい。ヤクルト・野村克也監督をして「ヒジの使い方が素晴らしい。パウエルに関しては投げるところが見つからない」と言わしめたほどの技術だった。

 しかし、プロの世界はなかなかに厳しい。翌97年、打率.253に終わると、オフには中日を解雇となる。98年に阪神へと移籍したが、調子が上がらず同年8月に解雇。メジャーに復帰し、独立リーグでプレーした後に引退した。その後はパドレスなどでコーチを務め、昨年から打撃コーチとして中日のユニフォームを着ている。

写真=BBM
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