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プロ野球回顧録

七色の変化球を武器に20勝4敗で最多勝も…28歳で引退したサイド右腕は

 

多彩な変化球で打者を翻弄


実働は5年と短かったが鮮烈な印象を残した


 その輝きは短かったが、当時の野球ファンは活躍を鮮明に覚えているだろう。1982年に20勝を挙げて最多勝に輝いた元日本ハム工藤幹夫だ。

 秋田県由利本荘市で生まれ育った工藤は本荘高でエースに。3年夏に県予選決勝で能代高に2対3と惜敗して甲子園出場はならなかったが、巨人など複数球団が獲得を検討する逸材だった。ドラフト2位で日本ハムに入団当初はアンダースローだったが、サイドスローにフォームを改造。イースタンで入団1年目の79年に8勝を挙げ、翌80年は13勝を挙げて最多勝に輝く。

 81年.工藤の名が全国に知れ渡る。シーズンは2勝9敗、防御率4.86と満足いかない数字だったが、ともに後楽園球場を本拠地とする巨人との日本シリーズで快刀乱麻の投球を見せる。第1戦は5対4の1点リードで迎えた9回に守護神の江夏豊が先頭の松原誠に本塁打を浴びて降板すると、工藤が救援登板で無失点に抑え、その裏のサヨナラ勝ちを呼び込んだ。第2戦も9回表から救援して1回無失点。第3戦も2回無失点と完ぺきな投球で勝利投手に。第5戦は0対9と一方的な展開で3投手のリレーだったが、工藤だけが巨人打線を唯一無失点に抑えた。第6戦も登板。原辰徳に2ランを浴びたが自責点はついていない。日本一は逃したが、この短期決戦で大きな手応えをつかむ。

 82年は6月から8月まで14連勝を飾るなど、20勝4敗、防御率2.10で最多勝に。最高勝率(.833)も獲得し、後期優勝に貢献した。しなやかなフォームからシンカー、大小2種類のカーブ、スライダー、シュート、フォーク、パームボールと多彩な変化球で打者を翻弄する。前期を制覇した西武相手に6勝を挙げるなど内容も濃かった。

 プレーオフの相手は西武だったが、その1カ月前、自宅でのトレーニング中に右手の小指を骨折する。大沢啓二監督は「プレーオフ後半には打者1人でもいいから投げられればいいね」などと話し、工藤はプレーオフ第1戦の試合前に利き手の右手に包帯を巻き、左手で軽いキャッチボールをしていた。だが、第1戦目のスタメン発表で先発投手の欄に「工藤幹夫」の名が。報道陣は大パニックとなり、「西武の先発は新人の工藤公康です」と伝えてしまったラジオ局もあったという。

 この奇襲先発は成功し、6回0/3を無失点に抑える。だが、救援した江夏が崩れて敗れると、第2戦も連敗。第3戦に中2日で再び先発のマウンドに上がった工藤は109球の完投勝利も、第4戦で敗退した。

プレーオフの奇襲登板の影響で…


しなやかな腕の振りから多彩な球種を操った


 このプレーオフで強行登板した代償は大きかった。無理して投げたことで折れた骨がなかなか治らない。12月になってようやくくっついたが大きな後遺症が残った。きちんと矯正しなかったため、骨が曲がってくっつき、右肩を痛めてしまう。83年は8勝8敗、84年はわずか1試合の登板に終わり、その後は右肩の故障でマウンドに戻ることは叶わなかった。88年に野手転向したが同年限りで現役引退を決断する。「プロ人生は太く短くと考えていた」という。日本ハムのエースと嘱望された右腕は実働5年間のプロ野球人生で通算78試合登板、30勝22敗、防御率3.74。28歳の若さでユニフォームを脱いだ。

 現役引退後は秋田へ戻り、秋田市手形山中町でスポーツ店を経営しながら、社会人野球チームの由利本荘ベースボールクラブの監督兼投手を務めていた。16年5月13日に肝不全のため55歳で逝去する。日本ハム最後の20勝投手。その勇姿は野球ファンの脳裏に深く刻まれている。

写真=BBM
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