初代はハワイから来た日系人
阪神で背番号「31」を背負い続けた掛布
2021年は助っ人のマルテが背負っている阪神の「31」。来日から3年目を迎えたマルテだが、まだ阪神の「31」に定着しきれていない印象を持つファンも少なくないのではないか。ただ、これはマルテの問題ではないだろう。選手として15年間、一貫して「31」を背負い続けた
掛布雅之の存在が、あまりにも大きいからだ。入団テストを受けた後、ドラフト6位で指名されて入団した掛布は、身長175センチとプロ野球選手としては決して恵まれていない体躯ながら1年目から一軍に定着。阪神が21年ぶりリーグ優勝、2リーグ制で初の日本一に輝いた1985年には不動の四番打者として無冠ながら抜群の存在感で“猛虎フィーバー”の象徴となった。
本塁打王は48本塁打の79年、35本塁打の82年、37本塁打の84年と3度を数える。日本一イヤーの85年までは5年連続で全試合に出場してチームを引っ張った掛布だったが、86年からは故障に苦しみ出場を減らし、88年いっぱいでバットを置いた。その後は長く現場から遠ざかっていた掛布だが、2016年に二軍監督として再び阪神の「31」を背負う。わずか2年だったものの、そのインパクトが現在も残っていることは確かだ。とはいえ、阪神の「31」は、もともと助っ人が多い系譜。マルテは掛布の後継者には見えないかもしれないが、「31」の後継者としては系譜から外れた存在ではないのだ。
初代の
堀尾文人は阪急(現在の
オリックス)から移籍してきて1939年に着けた日系人。外野のレギュラーとして、打順も上位を打った。当時は“末席”に近い大きな背番号ながら、存在感は申し分なかった。41年シーズン途中に退団した堀尾から「31」を継承した玉置(安居)玉一は投手だったが、すぐ内野手に転向して、戦後に復帰すると「14」で“ダイナマイト打線”の一角を担った。2リーグ制となった50年に「31」を背負った森田忠勇は二軍監督。一軍の監督が「30」を着けるのが一般的だった時代だ。
53年からは南海(現在の
ソフトバンク)時代に3年連続で盗塁王となっている移籍4年目の
河西俊雄で、引退して指導者に専念してからも「31」を2年間、着け続けた。58年に後継者となった
戸梶正夫は捕手。戸梶の移籍で外野手の
滝川博已がラストイヤーに、投手の
平山英雄がプロ1年目に、それぞれ1年ずつ着けている。やや低迷していた印象もある「31」だが、68年、掛布の前任者によって再び輝き始める。
ファンに認められた“「31」=掛布”
新たに「31」を背負ったのが助っ人のカークランド。当時の人気時代劇『木枯し紋次郎』の主人公のように爪楊枝をくわえて打席に立つ姿で人気を集め、掛布も「知っていました。爪楊枝をくわえた選手。(入団の際に)すげぇいい番号をくれるのか、とうれしかったのを覚えています」と振り返っている。掛布の後は3年間の欠番を経て、“掛布2世”と期待された新人の
萩原誠が後継者となるも、結果を残せないまま97年オフに移籍。掛布の後継者という期待は重圧でもあったはずだ。
広澤も阪神で「31」を着けた
2年の欠番を挟み、2000年に後継者となったのが歴戦の広沢克実だ。その引退で後継者となったのも8年目を迎えた主軸の濱中おさむ(治)で、「25」からの変更だったが、2年で「5」に。これで「31」は外野手の
林威助が継承する。林は台湾の出身ながら高校から日本でプレーしており、ドラフト7巡目で03年に入団して、4年目に「38」から変更したもの。規定打席に到達したのは「31」2年目の07年のみだったが、13年まで息の長い活躍を見せた。林の8年は戸梶に並ぶ2位タイ。もちろん、着けた期間で圧倒しているのは通算17年の掛布だ。長さだけではなく、「31」への愛着も、歴代の選手たちを超越したものだった。
掛布は76年オフに「3」への変更を打診されたが、固辞している。「(スタンドには)“31=掛布”のデカい横断幕。ファンの方々に認められた番号なんです」と掛布。引退した際には「『31』を用意する」という“殺し文句”で複数チームから誘われたが、これも固辞した。「“タテジマの『31』”に対する愛着が強かった。仮にですが、よそに行っていても違う番号を着けていたかもしれませんね」(掛布)
【阪神】主な背番号31の選手
戸梶正夫(1958〜65)
カークランド(1968〜73)
掛布雅之(1974〜88、2016〜17)
林威助(2006〜13)
マルテ(2019〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM