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プロ野球回顧録

高校時代は控え投手も…日本人初の4つの野球リーグを経験した通算313セーブの守護神は

 

当初は先発として期待も


現役時代から明るいキャラクターも魅力だった


 現在ヤクルトで監督を務める高津臣吾は、90年代のヤクルト黄金時代に不可欠な守護神として通算286セーブをマーク。メジャーでも守護神として活躍し、韓国、台湾と4つの野球リーグを経験した初の日本人選手だ。

 華々しいキャリアだが、アマチュア時代から陽の目を見ていたわけではない。広島市内で生まれ育ち、広島工に進学するが、同学年に絶対的エース・上田俊治がいた。高3の春夏に甲子園出場するが、本大会で登板機会はなく代打出場のみだった。亜大でも同学年に小池秀郎という大学No.1投手がいた。高津はアンダースローからサイドスローにフォーム改造し、リーグ通算40試合登板で11勝15敗、防御率2.34と頭角を現したが、主役はリーグ通算28勝をマークし、ドラフト1位で8球団が競合した小池だった。

 高津は1991年、ドラフト3位でヤクルトに入団。当初は先発投手として期待されたが、当時の野村克也監督に遅いシンカーの習得を勧められて磨きをかける。リリーフとしてブレークしたのはプロ3年目の93年だった。5月2日の巨人戦(東京ドーム)で松井秀喜にプロ初ホームランを浴びたが、プロ初セーブをマーク。守護神に定着すると、当時の球団記録を塗り替える20セーブを挙げてリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでも3セーブの活躍で胴上げ投手になった。

 94年に最優秀救援投手を獲得すると、95年は不動の抑えとして自身のセーブ記録を更新する28セーブでリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは二度目の胴上げ投手になった。

 試練も味わった。97年のシーズン序盤は打ち込まれる登板が続き、伊藤智仁にクローザーの座を譲る。先発に配置換えされても結果が出ない日々が続いた。だが、中継ぎで投げていくうちに調子を取り戻してリーグ優勝すると、日本シリーズでは3度目の胴上げ投手となった。98年はわずか3セーブに終わり、「限界説」も囁かれたが、監督が若松勉に代わった99年に30セーブで2度目の最優秀救援投手と鮮やかに復活する。01年も37セーブをマークし、3度目の最優秀救援投手に。4度目の日本一の胴上げ投手になった。大舞台に強く、日本シリーズが最も似合う守護神だった。

日本の独立リーグでプレーも


メジャーではホワイトソックスなどでプレーした(写真=Getty Images)


 34セーブで4度目の最優秀救援に輝いた03年オフ。FA権を行使してメジャーに挑戦する。目を見張るような剛速球がないサイドスローの活躍に懐疑的な見方も多かったが、ホワイトソックスで移籍1年目の04年に19セーブをマーク。監督のオジー・ギーエンは「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴはわれわれにとって最高のクローザーだ」と絶賛した。

 05オフに日本球界に復帰。ヤクルトに入団テストで復帰し、2年間で計26セーブを挙げるが、07年オフに戦力外通告を受ける。08年以降は米国、韓国、台湾と渡り歩く。11年には独立リーグ・新潟アルビレックスに入団。名球会会員が独立リーグでプレーするのは史上初だった。12年には監督兼選手に就任。同年限りで引退を決断し、引退試合の「終球式」でヤクルト時代に長年バッテリーを組んだ古田敦也に最後の1球を投げ込んだ。

 傷だらけになりながらも、求められる環境で投げ続けた22年の現役生活。日米通算313セーブという輝かしい実績だけが高津のキャリアではない。引退スピーチでは「夜も眠れないときや、すべてを投げ出してしまいたいときもありました。もしあのとき、やめていたら、こんなにつらい思いをせずに済んだのではないかと思うときもありました。ただ歯を食いしばり、いろんなものを犠牲にして、我慢して、頑張って、今日を迎え、僕が今までやってきたことは、間違いじゃなかったと確信しました。これまで、いろんな国で、いろんなリーグで僕に携わってくれた方々、心より感謝します」と時折、声を詰まらせながら感謝を口にした。

 14年からヤクルトに指導者として復帰し、一軍投手コーチ、二軍監督を経て昨年から一軍の監督に就任。就任1年目は最下位に終わったが、何度も挫折から立ち上がってきた指揮官の反骨心には火がついている。このまま終わらないだろう。

写真=BBM
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