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プロ野球回顧録

通算2000安打に届かなかったが 首位打者2度獲得した巨人の天才打者は【プロ野球回顧録】

 

打撃センスに惚れ込んだ長嶋監督


篠塚の左右に打ち分けるバッティングは芸術的だった


 天才的な打撃センスで2度の首位打者を獲得した元巨人篠塚和典。広角に打ち分ける打撃技術はまさに芸術だった。

 本名は篠塚利夫。銚子商の2年春夏に「四番・三塁」で甲子園に出場し、夏は同校初の全国制覇を飾る。篠塚の打撃は高校レベルを超えていた。2年夏の大会から金属バットが初めて導入されたが、篠塚は木のバットで打席に入り、PL学園戦、平安戦で本塁打を放っている。

 ところが、全国制覇の後に湿性肋膜炎を発症して3カ月間入院。一時は野球生命まで危ぶまれた。半年後に復帰したが体調の不安を危ぶむ声も多く、巨人の球団内でも指名に反対する声が出たが、当時の長嶋茂雄監督は篠塚の打撃センスに惚れ込んでドラフト1位で指名する。

 高卒3年目の79年に一軍定着し、76試合出場で打率.278をマーク。同年オフに「地獄の伊東キャンプ」に参加して長嶋監督に徹底的に鍛え上げられると、翌80年にジョン・シピンと二塁の定位置争いを制し、115試合出場で打率.260、6本塁打をマークする。

「80年は伊東キャンプの力を試すという気持ちが強かった。それで実際、あのメンバーが試合でも中心メンバーで出て、それなりに勝った。『よっしゃ』という手応えがあったのに突然、長嶋監督が辞めちゃったんだ。選手はショックでしたよ。だから81年は、恩返しですね。長嶋さんのためにも結果を残さなきゃいけないと、そういう思いが強かった。全員が1つの目標に向かうと強いというのが、あの81年ですね」

 恩師の長嶋監督が去った81年。篠塚は大きく飛躍する。阪神藤田平と激しい首位打者争いを繰り広げ、1厘差で及ばなかったが、自己最高の打率.357をマーク。73年の最後のV9以来、8年ぶりの日本一に大きく貢献する。

 81年から5年連続打率3割に到達するなど、計7度の打率3割以上と球界屈指の安打製造機として打ち続ける。84年に打率.334で初の首位打者に輝き、87年も広島正田耕三と同率の打率.333で2度目の首位打者に。パンチ力もあった。84年にリーグ最多の35二塁打を放つなど、細身の体から野手の間を抜く高度な広角打法は他球団の選手からも一目置かれた。

代打起用でも錆びつかなかった打撃


93年6月9日のヤクルト戦では好投を続ける新人・伊藤からサヨナラ本塁打を放った


 ほかの選手と比べてヘッドの細いタイプのバットを使っていたのは、「感覚的なものだから、持って、見て、使えると思ったものを使った」という。対戦するピッチャーに応じてバットを選択。頭の回転が速く、その魅力は打撃だけにとどまらなかった。二塁の守備では投手の配球、相手打者の特徴を分析した大胆なポジショニングで、チームの窮地を幾度も救った。ゴールデン・グラブ賞を4度受賞するなど、華麗さと堅実さを兼ね備えた守備で投手陣にも感謝された。
 
 81年から9年連続130安打以上放ち、89年終了時点で積み上げた安打数は1384本。当時32歳で脂が乗り切っている時期だったが、90年以降は腰痛の悪化で出場機会が激減する。92年のシーズン途中には利夫から和典に登録名を改名。代打での起用が増えたが、その天才的な打撃技術は錆びついていなかった。93年6月9日のヤクルト戦(石川)では、8回2/3まで無失点、当時セリーグタイ記録の16奪三振と快刀乱麻の投球を続けていた新人・伊藤智仁に対し、9回二死から代打で登場すると、初球の真ん中高めの直球を右翼席に運ぶサヨナラ弾。打席を2回外した後、バット一閃で最高の結果を出した打撃に凄みが詰まっていた。

 94年限りで現役引退を決断する。同年オフに東京ドームで引退セレモニーが行われ、「思い起こせば色んなことがありました。ここ4、5年出場試合数も減り、そろそろというときに皆さんの温かいご支援をいただき、19年間自分でもよくやったなと思います」と感謝を口にすると、大観衆から万雷の拍手を浴びた。

 通算1651試合出場、打率.304、92本塁打、628打点。通算安打は1696本だった。プロの世界で戦い続けた176センチ、68キロの小さな体には大きな負荷がかかったはずだ。名球会入りはならなかったが、攻守でこれほどの天才的なセンスを持ち合わせた選手は数少ないだろう。

写真=BBM
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