猛練習ではい上がる
2005年には43本塁打を放ってタイトルを獲得した
プロ入団時には、球史に名を刻む大打者になるとは誰も想像できなかっただろう。
広島、
阪神でプレーし、通算2203安打、319本塁打を放った
新井貴浩だ。
広島で生まれ育った新井は強豪・広島工高に進学するが、甲子園出場は叶わなかった。駒大ではリーグ通算60試合に出場で打率.241、2本塁打、26打点。内野の守備もうまいとは言えない。アマチュア球界で無名の存在だったため、地元の広島にドラフト6位で指名された際は驚きの声が上がったほどだった。
広島の練習量は球界屈指と言われていたが、新井は大学の先輩だった
大下剛史ヘッドコーチ、
長内孝打撃コーチの厳しい指導に必死についていった。キャンプは朝から晩まで練習し、シーズンに入っても午前6時に起き、二軍の由宇球場で5、6回までプレーしてから広島市民に向かい、一軍の試合に出場した。本拠地でビジターの練習時間帯もグラウンドの脇でゴロ捕球を連日行う。連続ティーでは他の選手は2箱だが、新井だけ4箱、5箱と休みなしのぶっ続けで打ち続けた。新井は週刊ベースボールのコラムで当時について、「あまりのきつさに何度も、『もう死ぬんじゃないか』と思いました。ただ、あとで思えば、相手をする長内さんも大変だったはずです。選手は私だけじゃありませんしね。それだけつき合ってくれたことには感謝しかありません」と振り返っている。
猛練習が実を結び、眠っていた素質が開花する。入団1年目の99年に7本塁打、翌00年以降は16本塁打、18本塁打、28本塁打と主軸打者への階段を昇っていく。ただ、ここから試練が待ち受けていた。2002年オフに尊敬する
金本知憲が阪神にFA移籍すると、四番に抜擢されたが結果が出ない。03年は打率.236、19本塁打。翌04年も打率.263、10本塁打と低迷する。
「この2年間にはつらい思い出ばかりがあります。とことん追い詰められ、続く05年を前に、これが今後の野球人生を決める年になる、と感じました。これまでの2年間と同じ結果なら、自分のポジションが決まるという危機感です。とにかく、何かを変えなきゃいけない。変えなければ、これが最後、ラスト1年になると思いました」
04年のオフに、鹿児島県の最福寺で初めて護摩行を行う。火柱の前でお経を唱え続ける密教の修行で、あまりの過酷さに気を失ってしまう人もいるほどだった。数日間の修行の後は顔や手がやけどだらけになるが、新井はこの修行をやり抜いたことが、大きな心の支えとなった。05年は開幕スタメンから外れたが、代打で結果を出し続けると7月から四番に定着。打率.305、43本塁打で初の本塁打王を獲得する。
阪神へ移籍も15年に広島復帰
FA権行使を表明した会見で涙を流した
広島の看板選手として活躍してきた新井だったが、尊敬する阪神・金本とプレーしたい気持ちを抑えきれず07年オフにFA宣言する。「1カ月、悩み抜いての結論。残留したらいつか後悔するかもしれない。つらいです。カープが好きだから。FAなんてなかったらいいのに」と記者会見で号泣した。
新天地の阪神でも主軸を担い、11年3月に発生した東日本大震災では日本プロ野球選手会の会長として両リーグ同時開幕を訴えた。同年は93打点をマークして打点王に輝く。阪神で7年間プレーすると、14年オフに自由契約を申し出て古巣の広島へ復帰。15年の開幕戦・
ヤクルト戦(マツダ)に代打で登場すると大歓声が起こった。
「罵声の中でやることも覚悟していたが、真逆だった。じゃあ、今度は、こうして声援を送ってくれるファンの人を喜ばせたい、絶対に喜ばせると思いました」
阪神時代の最終年は代打要員だったが、広島に戻って再び輝きを取り戻す。16年に通算2000安打を達成するなど打率.300、19本塁打、101打点の活躍で25年ぶりのリーグ優勝でシーズンMVPに輝き、その後もカープのリーグ3連覇の精神的支柱として不可欠な存在となった。
18年限りで現役引退。19年3月16日に行われた引退セレモニーでは新井を初めて四番に起用した当時の監督の
山本浩二氏、強い絆でともにチームを引っ張った
黒田博樹氏が登場し、記念品を手渡した。「カープファンの皆さま、たくさん怒らせ、たくさん悲しませたのに、本当にたくさん……、ただただ、ありがとうございました」と声を詰まらせながらスピーチ。後輩の選手たちに胴上げされ、笑顔でマツダスタジアムを去った。
プロ20年間の野球人生で通算2383試合出場、打率.278、319本塁打、1303打点。不器用でも強靭な肉体と折れない心で大輪の花を咲かせた。その生き様が広島ファンだけでなく、多くの野球ファンに愛されている。
写真=BBM