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プロ野球回顧録

生き様は「波乱万丈」育成枠も経験…日米6球団渡り歩き、400本塁打&2000安打達成したスラッガーは【プロ野球回顧録】

 

「いてまえ打線」の四番


近鉄の主軸として本塁打を量産した中村


 漫画でも思いつかないその生き様は「波瀾万丈」。かつては近鉄の四番打者で年俸5億円を稼いだが引退危機に。中日に育成契約で入団して年俸400万円から再起を誓い、日本シリーズMVPに輝いた。日米6球団を渡り歩き、通算404本塁打、2101安打をマークした中村紀洋だ。

 大阪府で生まれ育った中村は小、中時代に傑出した存在ではなかった。高校は公立の渋谷高へ。だが、誰もが驚く下克上を果たす。2年夏に「四番・投手」で激戦区の大阪府予選を勝ち抜き、同校初の甲子園出場に導く。大阪府予選決勝・上宮高戦は圧倒的に劣勢が予想されたが、2打席連続アーチを放ち、投手でも4回から救援して2失点の快投でプロの評価が急上昇した。

 近鉄にドラフト4位で入団。ちなみに同学年の愛工大名電高・鈴木一朗(イチロー)がオリックスにドラフト4位、高田商高・三浦大輔も大洋(現DeNA)にドラフト6位で入団するなど下位の高卒指名に逸材がそろった年だった。中村はプロ4年目の95年に20本塁打を放って三塁のレギュラーに定着し、98年から5年連続30本塁打以上をマークする。00年に39本塁打、110打点で2冠王に。最下位からの逆襲を誓った01年は自己最多の46本塁打を放つ。9月24日の西武戦(大阪ドーム)で、9回にライバルの松坂大輔から右翼席へサヨナラ2ランを放った一撃は強烈だった。「いてまえ打線」の四番として12年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。132打点で2年連続打点王に輝いた。

 中村の独特の打法を子どもたちもマネしていた。狭いスタンスでバット上段に構え、足を大きく上げてタイミングを取る。打った後にバットを高く放り投げるスタイルが美しかった。長距離砲だったが広角に打ち分け、ミート能力も高い。同じ右打者の落合博満にあこがれ、VHSのビデオテープが擦り切れるほど何万回も落合の打撃フォームを見て研究した。また、三塁の守備もグラブさばきが巧みで、身のこなしが柔らかい。送球も安定していてゴールデン・グラブ賞を7度受賞している。「打撃は嫌いだけど、守備は大好き」と公言しているように、強靭な足腰は三塁で毎日受け続けたノックで培われた。

 2002年にFA宣言した際は日米数球団で争奪戦になるが、近鉄に残留。05年にメジャー挑戦でドジャースに入団するがチャンスが少なく、17試合出場で打率.128、0本塁打に終わり1年で退団する。06年からオリックスで日本球界復帰するが、07年に球団との交渉が決裂して退団。2月に入っても所属先が決まらず孤独な自主トレを続ける中、中日の落合博満監督が手を差し伸べる。テスト入団を受け、育成枠で入団が決定。背番号は「205」だった。

育成入団から日本シリーズMVPへ


中日では育成入団からはい上がった


 丸刈り頭にして裸一貫で直すと、オープン戦で結果を残して背番号「99」で支配下登録される。シーズンでも打率.293、20本塁打と活躍。日本シリーズ・日本ハム戦で打率.444、4打点と大勝負強い打撃でMVPに。インタビューで「本当に今年1月からいろんなことがありましたけど、本当にドラゴンズさん感謝しています。ありがとうございます」と目を真っ赤にした。

 物語はまだ続く。07年オフにFA宣言して楽天へ。10年オフに戦力外通告を受けると、自主練習を続けて他球団からのオファーを待った。横浜(現DeNA)に電撃入団するのは11年5月。全盛期よりパワーは落ちたが、高度な打撃技術は健在で主軸を張った。13年にはプロ通算2000安打を達成。5球団に所属して2000安打達成したのは、加藤英司に次いで2人目だった。

 14年オフにDeNAを自由契約となり、他球団からのオファーもなかったが、中村は引退という言葉を使わず、自身のSNS上で「生涯現役」を貫くことを明言した。NPB通算2267試合出場、打率.266、404本塁打、1348打点。現在は浜松開誠館高で非常勤コーチを務めるほか、17年から中学硬式野球大会「中村紀洋杯」を開催するなど野球普及、アマチュア野球の指導者として精力的に活動している。紆余曲折を経た野球人生だが、まだその旅は終わらない。

写真=BBM
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