「0」が唯一無二だった時代
背番号「0」2年目の84年、日本シリーズMVPに輝いた長嶋
数字の歴史については詳しくないが、聞くところによると、「1」に始まる数えられる数字よりも、存在しないことを意味する「0」は登場が遅いのだとか。数えられる数字、というのも奇妙な表現だが、数字は存在しているものを数える作業に便利なツールである一方、なにも存在しないことを数字で表現したのだから、どこか哲学的な雰囲気が漂っているように思えるのが「0」だ。
背番号の世界でも、ほかの数字よりも「0」の登場は遅い。
中日の「15」を永久欠番にした
西沢道夫がプロ野球が始まった1936年の秋に練習生として「0」を着けていたという伝説があることは紹介しているが、それが事実であっても、正式な登録ではなかったことは確かだ。日本のプロ野球で「0」が初めて登場したのは83年。
広島で
長嶋清幸が背負ったときだ。
当時を知るファンは、「0」といえば真っ先に長嶋を思い出すのではないか。あれから38年が経った現在、ごくありふれた背番号になっている「0」だが、プロ野球のグラウンドで「0」を初めて見たときの衝撃は長い時間が経っても鮮明だ。長嶋はドラフト外で80年に入団。与えられたのは「66」だった。当時は現在よりも若い背番号には主力のイメージが濃く、大きい背番号の選手が結果を出せば背番号を小さくする傾向も強かった時代だ。長嶋も1ケタの背番号にあこがれる選手の1人だった。
1年目から着実に出場機会を増やしていった長嶋は、3年目の82年には79試合に出場。オフには背番号を変更する話が持ち上がった。この82年にメジャーのナ・リーグで首位打者に輝いたアル・オリバー(エクスポズ)が着けていたのが「0」。これを知った長嶋が
古葉竹識監督に相談したとも、古葉監督が長嶋に勧めたものともいわれる。翌83年シーズンに広島が掲げたスローガンが“START FROM ZERO”だったこともあり、その象徴としても期待されたという。いずれにしても、前例のないことでもあり、否定的な声も少なくなかった。
「0」ながら唯一無二の存在であり、それが違和感を放っていたのも事実だ。ただ、それは何か新しいことが始まりそうな、それこそ“START FROM ZERO”という期待感と表裏一体だった。長嶋も「どうしても注目されるんで、プレッシャーはありました」と語りながらも、「その分、励みになりました」と振り返っている。実際、長嶋は活躍した。「0」1年目で外野のレギュラーに定着して、全試合に出場。勝負強い打撃と果敢な外野守備に加え、170センチとプロ野球選手としては小柄な体も「0」のインパクトを強調した。
長嶋は広島が4年ぶりにリーグ優勝を果たした84年には阪急との日本シリーズで日本一の立役者となって、MVPに。長嶋は「0」という背番号をプロ野球で初めて背負っただけでなく、その活躍で存在意義を構築したのだ。「0」は他のチームにも普及し、やがて定着。言い換えれば、「0」は早々に長嶋だけの背番号ではなくなっていった。
2000年代からユーティリティーの系譜に
ユーティリティー選手として活躍した木村も背番号「0」を着けた
歴史が浅いこともあり、広島の「0」を背負った選手は2021年を迎えた現在までで5人しかいない。長嶋の移籍で91年に後継者となったのはプロ6年目で内野手の
高信二で、
西武との日本シリーズでは第7戦(西武)で先制の押し出し四球を選んだ姿も印象に残る。高は広島ひと筋で98年までプレー。翌99年に継承したのが
木村拓也だ。
日本ハムで捕手から外野手に転じ、広島へ移籍してきて5年目に「41」から変更。広島では内野守備も特訓、スイッチヒッターにも挑戦して、「0」2年目の2000年に正二塁手としてキャリア唯一の全試合出場を果たした。
そこから広島の「0」にはユーティリティーの印象が濃くなって、木村が06年シーズン途中に移籍すると、翌07年にはプロ8年目の外野手で捕手の経験もある
井生崇光が継承する。井生は12年までプレーして引退。翌13年に後継者となったのが現役の
上本崇司だった。初めてプロ1年目から広島の「0」を背負う選手となった上本もバックアップとしてチームに不可欠な存在。迎えた21年はプロ9年目で、広島の「0」も最長を更新中だ。
【広島】背番号0の選手
長嶋清幸(1983〜90)
高信二(1991〜98)
木村拓也(1999〜2006)
井生崇光(2007〜12)
上本崇司(2013〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM