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平成助っ人賛歌

ホームランか、三振か、肉離れか――ナゴヤドーム初の天井直撃弾を放った規格外の大砲は/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

ウッズの代わりに来日


中日での4年間で111本塁打を放ったブランコ


 流行語大賞に「ファストファッション」や「派遣切り」がノミネート。

 あれは俳優の妻夫木聡が戦国武将・直江兼続を演じるNHK大河ドラマ『天地人』が、平均視聴率21.2%を記録した2009年の出来事だ。前年9月、世界中で株価下落や景気悪化を招いた“リーマン・ショック”の余波に、日本もまだ揺れていた。

 この年、中日ドラゴンズの主砲もコストカットで年俸6億円のタイロン・ウッズから、20分の1にも満たない年俸2800万円の格安助っ人トニ・ブランコへと代わった。当時、多くの野球ファンは懐疑的な見方をしていた。ブランコ? 韓国や台湾での実績があるわけでもなければ、メジャー56試合でわずか1本塁打じゃないかと。なにせ求められるのはあの“ウッズの代役”だ。NPB6年間で通算240本塁打を放った2000年代を代表する背番号44のスラッガー。中日在籍4シーズンで06年には47本塁打、144打点の二冠獲得でリーグVの原動力に。翌07年にはチーム53年ぶりの日本一にも貢献した不動の四番打者である。

 なお、ウッズは横浜時代に投手コーチの森繁和と出会い、04年に森が中日へ行く際には「オレも連れていってくれ」と頼み、1年置いて05年に獲得した経緯があった。そんな苦楽を共にした助っ人も39歳の高齢と6億円の高年俸がネックとなり08年限りでついに退団。その穴埋めを格安のマイナー・リーガーでしようというのだ。いったいどういう経緯で、無名のドミニカンは落合中日へ来たのだろうか? 04年から中日の投手コーチを務めていた森氏が、『ベースボールマガジン』2019年4月号のインタビューで、「08年のウインター・リーグで出会ったのがトニ・ブランコだった」と未知なる大砲候補との遭遇を振り返っている。

「(ウッズの)代わりが務まるヤツなど簡単にはいないだろうと思って見たら、圧倒的な飛距離が際立っていた。中日が提携していたチームの四番だったので、調べたら性格もいい」

「当時のブランコは27、28歳で、メジャーと3Aを行き来していた。本人は日本で稼ぎたいと言う。メジャーに行けば年俸8000万〜1億、マイナーに落とされたら2〜3000万だった。最初に来日したときには年俸2800万円台だったと思う。契約金を先に欲しいと言ってきたが、3〜400万円と安かった。その代わり出来高もつけた。結局、タイロン・ウッズの穴を埋めて余りある活躍をした」

 いわば森は海の向こうで見つけた、ブランコの若さとパワーとハングリーさに懸けたのである。28歳のドミニカンはオープン戦で6本塁打と結果を残し、09年開幕から「四番・一塁」で起用されると、いきなり横浜の三浦大輔から開幕戦初打席初アーチを記録。4月は打率2割台前半に4本塁打と不振に苦しむが、5月7日には広島前田健太からナゴヤドーム初の天井スピーカー直撃の認定ホームランをかっ飛ばす。「ナゴヤドーム史上最大のホームラン」と称された一撃で規格外のパワーが野球ファンの間で話題となり、さらに翌8日の巨人戦でも東京ドームの左中間スタンド看板直撃弾。188cm、102kgの体格でバットを振るときは手首をこねず、バットを押し続けるイメージを持ちボールの上を叩く感覚で強く振り抜く。打球スピードや飛距離は図抜けており、ブランコは全試合四番としてフル出場、39本塁打、110打点で二冠に輝いた。

安月給から脱却するために来日


DeNAでは移籍1年目に打率.333、41本塁打、136打点をマーク


 翌年から年俸6倍増で出来高も含めれば総額4億円を超える2年契約を勝ち取り、見事に「日本で稼いで成り上がる」という目標を達成してみせた。チームがリーグ優勝した10年も32本塁打を放つが、2年連続リーグ最多の150三振以上と穴も多く、四番を外れることも増えた3年目以降は死球による第二中手骨骨折の故障もあり成績を下げる。助っ人としては珍しく死球に怒ることがほとんどなかったブランコに対しては、各球団厳しい内角攻めも多かった。そのド迫力の風貌とは裏腹に彼は温厚な性格で恥ずかしがり屋だったのだ。皮肉にも大幅に上がった年俸が足枷となり4シーズン過ごした中日を退団すると、13年から横浜DeNAへ。ここで再びブランコは爆発する。

 広いナゴヤドームから一発の出やすい横浜スタジアムへとホームが変わり、4月から月間14本塁打をマークし球団記録を更新。42試合目で放った20号本塁打は日本球界歴代3位のスピードで、68年長嶋茂雄と並んだ。シーズン序盤に55号超えを期待されたのは、この年60発を放つヤクルトバレンティンではなくブランコだった。7月発売の雑誌『Number』832号ホームラン特集号で、表紙ビジュアルに抜擢されたのはDeNAの背番号42である。

 なお統一球導入3年目で本塁打が増え「ボール(低反発球)が変わった」と囁かれる中、『週刊ベースボール』13年6月10日号では大胆にも選手100人に「今年のボールは飛ぶ?or変わらない?」というアンケートを敢行。ブランコの回答は「確かにホームランは打っているけれど、自分としては球の違いがどうこうということは感じていない。ナゴヤドームでホームランが出ていることは、自分としてはなぜかとは思うが」である。そして、この号の巻頭ではブランコの独占インタビューが掲載されている。

「狭いという影響もあるけど、それよりも横浜スタジアムはボールがよく見えるという点が大きい。昨年までは広いナゴヤドームがホームだったので結果があまり残せなかったけど、いまではホームで一番自信が持てるようになり、毎日ポジティブな気持ちで球場に足を運ぶようになったというのはポイントになると思うけどね」

「(打撃にはパワーとテクニック)どちらも必要だけど、しいて言えばテクニックの方がより重要になるだろう。本塁打を打つには、このボールに対応するにはどうしたらいいのかとか、バットの芯に当てるためにどうしたらいいのか、というような技術が必要だから」

「自分たちはエンターテイナーであり、ファンの皆さんを喜ばせること、夢を与えることが仕事。野球の醍醐味というのは、やっぱり三振か本塁打。それがあるからこそ、盛り上がるのではないかと思うよ」

最後はオリックスでプレー


 日本で2000安打を放った同僚のラミレスから打撃のアドバイスをもらい、ボスは陽気な中畑清監督。しかもベテランの多い中日とは対照的にDeNAは若くて明るい雰囲気だ。「自分たちの仕事はエンターテイナー」というブランコには新天地の環境が合った。13年は初の40本台クリアとなる41本塁打、136打点で2度目の打点王に加え、前年の打率.248から333へ急上昇させ自身初の首位打者を獲得。OPS1.049と球界屈指のスラッガーとして恐れられた。

 しかし、「健康で居続けることが一番の目標になる」という本人の言葉どおりに30代中盤を迎えたブランコの体に一気にガタが来る。14年は左大腿二頭筋肉離れから下半身の故障が慢性化し3度の故障離脱(ちなみに当時フットサルで軽い肉離れをすると「肉がブラブラブランコ」なんてどうしようもないギャグが神宮外苑では流行ったりもした)。オリックスへ移籍した15年には打席でハーフスイングをした際に、右内転筋の肉離れで退場という草野球でよく見る運動不足のお父さんのような珍プレーが話題となり、9月にも右大腿二頭筋炎でまたもシーズン3度目の離脱。太り過ぎから膝への負担も限界を超え、もはやプレーができる状態ではなかった。

 15年は9本塁打、NPB8シーズン目の16年はわずか3本塁打に終わり静かに退団。その規格外のパワーで超特大アーチをかっ飛ばした全盛期のインパクトと、晩年の気が付けば故障離脱のズンドコぶり。

 ホームランか、三振か、肉離れか――。

 良くも悪くも見るものを飽きさせないトニ・ブランコは、平成助っ人史に名を刻んだまさに一級のエンターテイナーであった。
 
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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