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プロ野球回顧録

ドラフト6位で無名も本塁打王3度獲得 「ミスタータイガース」と呼ばれた強打者は【プロ野球回顧録】

 

星野仙一が「こいつは大物になる」


阪神の主砲として85年の日本一にも貢献した掛布


「ミスタータイガース」の愛称で親しまれた掛布雅之は身長175センチ。プロ野球選手の中では小柄だったが、広い甲子園を本拠地にする阪神一筋で本塁打王を3度獲得した。甲子園は右翼から左翼に「浜風」が吹くため、右翼への打球は押し戻される。左打者が本塁打を打つのは難易度が高かっただけに、この記録は大きな価値がある。プロ通算349本塁打をマークしたが、生粋の長距離砲ではない。技術を磨いてホームランアーティストに変貌した。

 習志野高2年の夏に「四番・遊撃」で甲子園に出場。千葉県内では巧打者として知られていたが、体格が小柄だったこともあり、プロからの誘いはなかった。だが、あきらめない。父親のツテをたどり、阪神の秋季キャンプに参加。事実上のテストを受けて首脳陣から実力を認められ、ドラフト6位で入団する。チャンスはすぐに訪れた。オープン戦で正遊撃手の藤田平が結婚式に出席するため欠場、控えの野田征稔には不幸があって帰郷したことで一軍へ。実戦で快音を連発すると、無名の高卒ルーキーが開幕一軍の切符をつかむ。対戦した中日星野仙一が「初対決はセカンドゴロに打ち取ったはずだが、1球目、ものすごいスイングでファウルチップ。こいつは大物になる」と予言したのが興味深い。

 75年に三塁の定位置をつかむと、76年に初の規定打席に到達して打率.325、27本塁打。翌77年も打率.331、23本塁打、78年は打率.318、32本塁打と球界を代表する強打者となる。そして、同年オフに長距離砲で主軸を務めてきた田淵幸一西武にトレードで移籍すると、名実ともに「ミスタータイガース」に。79年は打率.327、48本塁打で初タイトルの本塁打王を獲得する。甲子園で本塁打を量産するため、流し打ちで左翼に本塁打を運ぶ打撃は芸術の域だった。

尊敬する先輩からの金言


 80年はヒザの故障で打率.229、11本塁打と不本意な成績に。ここで尊敬する先輩からの金言が野球人生に大きな影響を及ぼす。

「81年の広島遠征のときです。江夏(江夏豊)さんの広島のマンションに、食事に招待されて、そこに衣笠祥雄さんも来られたんです。そのときに『阪神の四番としてファンの前で130試合休まずに野球をやることが、お前の最低の義務だ』と言われたんですよね。キヌさんは『本塁打やファインプレーを見せるのも大事だけど三振も野球、エラーも野球だ。お前のそういうところを見に来ているファンもたくさんいるぞ』と。さらに『お前の無様な姿をグラウンドでさらけ出しなさい。いまの阪神にはそれが必要なんだし、お前にも必要なことだと思うよ』と」

 81年から5年連続全試合出場。ファンの一言も自身の打撃を見つめ直すきっかけになった。81年に打率.341、23本塁打の好成績をマークしたが、ファンとの交流会で女性ファンに「何でホームランを23本しか打てないんですか?」と言葉を掛けられた。

「そのときにハッと気がついたんです。130試合に出ましたが、それに満足していた。打率が良かったので1年後には首位打者を獲得できるというほうの自信があったんです。もう1度、いろいろと考え直したんです。そのひと言で、自分の中ですごい葛藤が起こった。でも阪神の四番として、ファンの期待に応える四番でありたいと思っていたので、そちらに、本塁打を狙う打撃にしようと」

日本一から3年後に引退


85年には通算300本塁打にも到達した


 掛布は本塁打を打ち続けるため、飽くなき向上心で創意工夫を重ねた。打球が上がらなくなったため、メーカーの方にスポンジボールを発注。家のガレージで約30度の高さに的を作り、そこに当たるようにスピンをかけて打つ練習を毎日1時間以上繰り返した。硬球では勝手が違うため、試行錯誤を続けたが努力は裏切らない。

「ある試合のある打席で、状況的にアウトになってもいいような場面でした。すべてのボールを見逃してやろう、と思って打席に入り、そのときに甘いボールが来た。その瞬間、私の体が勝手に反応し、スポンジボールで角度をつけて打ったときのような、ボールがつぶれるような感じが体の中にビビビッと走ったんです。もちろんホームランでしたよ。スポンジボールを打ったときの感覚を体が思い出した感じ。まさに、この1打席で体が思い出したんですね。それで82年に本塁打王(35本塁打)と打点王(95打点)の2冠を獲りました」

 84年も37本塁打で3度目の本塁打を獲得。勝利に飢えていた掛布に歓喜の瞬間が訪れたのは翌85年だ。4月17日の巨人戦(甲子園)で三番・バース、四番・掛布、五番・岡田のクリーアップがバックスクリーン3連発を放つなど強力打線を武器に白星を積み重ね、21年ぶりのリーグ優勝。日本シリーズでも西武を4勝2敗で下し、球団以来創設初の日本一に輝く。

 このとき、掛布は30歳。脂の乗り切った時期で今後も打ち続けると思われたが、本塁打にこだわり、全身を使ってスイングしていた体は満身創痍だった。86年に左手首に死球を受けて骨折。連続試合出場が663で途切れると、88年も67試合出場にとどまり、打率.250、5本塁打。日本一の歓喜から3年後に引退を決断する。他球団から獲得のオファーが届くなど、「まだまだできる」という声が多かったが、掛布の心は満たされていた。

「引退したときに衣笠さんに『お前には優勝を経験させるべきではなかったな。野球に満足してしまっただろ。もっと野球に飢えた掛布でいたほうが、野球人生が延びたと思うな』と。僕の中では、すべて満足して引退したのでいまでも何の後悔もないです」

 プロ15年間で通算1625試合出場、打率.292、349本塁打、1019打点。目いっぱいプレーする掛布に阪神ファンは夢を乗せた。その魂は縦ジマのユニフォームを着た後輩たちに受け継がれている。

写真=BBM
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