週刊ベースボールONLINE

HOT TOPIC

斎藤雅樹と今中慎二 平成史上で全盛期にすごかった投手はどっち?

 

それぞれのチームでエース級の働きをした斎藤雅樹(左)、今中慎二


 工藤公康山本昌野茂英雄黒田博樹……いずれも通算200勝を挙げた球史に残る投手たちは成績のみならず、野球に取り組む姿勢、生き様が野球ファンに強烈なインパクトを残した。上記の4投手はもちろんすごいのだが、平成史上で「全盛期にすごかった投手」として名前が挙がるのが、元巨人の斎藤雅樹、元中日の今中慎二だ。ともに通算200勝には届かず名球会入りしていないが、球界を代表する投手として一時代を築いた。斎藤雅と今中。巨人、中日のエースとしてヒリヒリする勝負を繰り広げてきたが、あなたはどちらの投手の全盛期がすごかったと感じるだろうか。

サイドからキレ味鋭いボールを投じた斎藤


・斎藤雅樹
※通算426試合登板 180勝96敗11セーブ、防御率2.77 勝率.652

 サイドスローから140キロを超える直球、キレ味鋭いスライダー、シンカーを武器に「平成の大エース」と呼ばれた。勝率.652は圧巻の一言だ。平成で唯一の2年連続20勝をマーク。1989年には11連続完投勝利の日本記録を達成し、最多勝、最優秀防御率、平成初の沢村賞を受賞。90年も8試合連続完投勝利を挙げるなど最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最優秀選手とタイトルを総ナメにした。

 斎藤は順風満帆に階段を駆け上がったわけではない。市川口高から83年ドラフト1位で巨人に入団。当時はオーバースローだったが、抜群の打撃センスを買われて内野手へコンバートを検討された。すると、当時の藤田元司監督が投球時の腰回転がサイドスロー向きだったと分析してフォーム改造へ。斎藤は週刊ベースボールの取材でこう振り返っている。

「1年目を振り返るときに忘れてはならないのが、藤田元司監督との出会いです。オーバースローだったのを『サイドスローで投げてみろ』って言ってくれたのは藤田監督でしたし、その言葉がなかったら……プロの世界でここまでやれていなかったと思っています。しかも当時は内野手転向の話も少しあって、投手の練習以外にも、打撃練習もさせられていた中だったので『これで投手だけの練習に集中できるぞ』という、うれしさもありました」

「ただ、最初はまったくストライクは入らないですし、真っすぐのスピードも出ない。こんなんで大丈夫かな……と思いましたけど、カーブだけは最初からすごく変化してくれたんですよね。本当に自分でもびっくりするぐらい。それでこれはいけるかもしれないぞと思って、ひたすら多摩川のグラウンドでフォーム固めの日々でしたね。鳴り物入りで高卒1年目から一軍でバリバリ活躍する選手とは真逆のスタートだったかもしれませんけど、長い目で見るとこの時間があったからこそ、長くプレーできて、結果もある程度残せたのかなと思っています」

 2年目の84年にプロ初勝利、翌85年には先発、中継ぎとフル回転して12勝を挙げた。87年は0勝に終わり、トレード要員に上げられたが、藤田監督が89年に監督復帰して復活。前述どおり89、90年と2年連続20勝、89年には11連続完投勝利の日本記録を達成した。その後も巨人の絶対的エースとして活躍。最多勝5回、最優秀防御率3回、最多奪三振1回獲得。当時連盟表彰はなかったが3回、最高勝率にもなり、史上4人目の沢村賞を3回受賞した。現役時代の終盤は右腕の故障に加え、足の内転筋の故障などで球威が衰えて登板機会が減少。通算200勝に20勝届かず2001年限りで引退した。

ストレートとカーブのコンビネーションで打者を封じた今中


・今中慎二
※通算233試合登板 91勝69敗5セーブ、防御率3.15 勝率.569

 マウンド上でのたたずまいが“エース”だった。細身の体型でムチのようにしなる左腕から繰り出される150キロ近い直球、100キロ台のカーブ、80〜90キロ台のスローカーブ。主にこの3種類の球種で投球を組み立て、精密な制球力と緩急で打者を腰砕けにする。通算成績を見ると斎藤雅に見劣りするが、全盛期の活躍ぶりは凄かった。

 大阪産大高大東校舎(現大阪桐蔭高)で甲子園出場はならなかったが快速球を武器に高校No.1サウスポーと評価され、中日にドラフト1位で入団。プロ1年目に初勝利をマークすると、2年目の90年に初の規定投球回に到達し、6完投で10勝をマークする。

 今中の代名詞となる縦に大きく割れるスローカーブを習得したのは92年だった。4月の巨人戦に登板した際、左手首に打球が当たって骨折。リハビリ期間で、投げた際に痛みがないカーブのみで遠投していたところ、コツをつかんでスローカーブを習得した。翌93年は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝、最多奪三振などに輝き、審査項目をすべて満たして沢村賞を受賞。リーグトップの14完投で249イニングと投げまくった。巨人との「10.8決戦」で優勝を逃した94年も2年連続リーグトップの14完投で197イニング。毎年のように200イニング近く投げ続けた。

 当時、中日に同じ左腕で先輩の山本昌がいた。通算219勝をマークしたレジェンドだったが、“エース”で連想するのは今中だった。山本昌がNPB歴代最高の実働29年間で219勝をマークしたのに対し、今中は半分以下の13年間の野球人生で91勝と遠く及ばない。しかし、山本昌が514試合の先発登板で79完投に対し、今中は約3分の1の187試合先発登板で74完投と遜色ない。マウンドに上がった最後まで投げる。昭和のエース像を継承した稀少価値の左腕だった。

 95年に15完投で12勝、4年連続開幕投手を務めた96年に14勝をマーク。25歳までに87勝を積み上げたが、身を削って投げ続けた代償は大きかった。徐々に直球の球速が落ちてカーブもキレが失われていく。96年に左肩関節周囲炎で戦線復帰後も違和感を覚えながら投げた結果、患部が悪化。97年にオープン戦初登板となった3月のロッテ戦では球速が最高124キロにとどまり、球場がどよめいた。その後も全盛期の球は取り戻せず、01年限りで現役引退。30歳の若さだった。

 マウンド上ではポーカーフェースを貫いていた左腕が、「後悔はありません。ただ、悔いはあります」と引退会見で目を潤ませたのが印象的だった。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング