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平成助っ人賛歌

外国人最多の“464発男”タフィ・ローズはなぜコーチの胸ぐらをつかんだのか?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

堀内政権の混乱の象徴!?


巨人には04、05年の2年間、在籍したローズ


「キャッチャー阿部慎之助のサード転向」計画。

 2017年8月13日、広島戦(マツダ広島)で巨人の阿部慎之助は通算2000安打を達成したが、直後に発売されたスポーツ報知の記念タブロイド号で堀内恒夫氏がこんな言葉を贈っている。「内野手なら3000本打てた」と。実際に自身が巨人監督を務めた04〜05年頃、阿部のサードコンバートを考えていたという。チームは02年オフにヤンキースへ移籍した松井秀喜を継承できる、生え抜きの和製大砲を欲していた。三塁レギュラーにはホークスからの無償トレードで移籍してきたばかりの小久保裕紀がいたが、ヒザに不安があったため一塁へ回したい。そこで堀内氏は安田学園高時代にサード経験があり、当時まだ20代中盤の若さだった背番号10に目をつけたわけだ。しかし、キャッチャー阿部の代役などいるはずもなく、このプランは幻に終わる。

 それにしても、もしコンバートが実現していたら、その後の巨人球団史も大きく変わっていただろう。仮に三塁が阿部、一塁には大型契約のイ・スンヨプとくれば06年オフの小笠原道大のFA獲得はスルーした可能性が高いし、なにより最強捕手・阿部不在ならば12年の五冠達成など第二次原政権の栄光の日々もなかったかもしれない。となると、令和の時代に巨人を率いるのはいったい誰か? いやぁコンバートしないで本当に良かった。ホリさん(デーモン・ホリンズではない)、あんた無茶やで……と心配したくなるほど、あの頃の巨人のチーム状況は最悪だった。

 03年9月に“読売グループ内の人事異動”という名目で、前年の日本一監督・原辰徳がわずか2シーズンで電撃辞任。これにより、急きょ発足した堀内体制は「投手を中心とした守りの野球を目指す」はずが、フロントと足並み揃わず、本塁打王経験者と各チームの元四番が並ぶ超重量打線でひたすらホームランを打ちまくるという大味な野球が展開された。04年のチーム本塁打259発は日本新記録。そのあまりの破壊力に長嶋茂雄は「史上最強打線」とド直球で名付けたが、同時に肝心の投手陣がチーム防御率4.50と投壊して3位キープがやっと。翌05年は抑え候補のダン・ミセリが開幕直後に浅草観光をかましてさっさと帰国。球団史上初の80敗を喫して5位に沈み、たった2シーズンで堀内政権は終わりを告げた。そんな当時の混乱を象徴する大物助っ人選手が、あのタフィ・ローズである。

“いてまえ打線”の中軸として


来日1年目、96年近鉄キャンプでのローズ


 ローズは96年に近鉄バファローズでNPBでのキャリアをスタートさせた。カブス時代は開幕戦でドワイド・グッデンからの3打席連続アーチで一躍脚光を浴びるが、そこがピークでメジャーと3Aを行き来するエレベーター選手から抜け出せずにいた。「故郷に戻って消防士にでもなろうかな」とまで悩んだローズは、一念発起して27歳で来日を決意。社交的な性格で日本語や日本食にも早くから興味を示し、1年目の5月に西武戦でサヨナラ満塁弾を放つと佐々木恭介監督の代名詞「ヨッシャー!」をお立ち台で連呼して人気者に。ヘルメットを深くかぶり、バットを後方で寝かせ回しながらタイミングをとる独特な打撃フォームは藤井寺名物となる。

「(ヘルメットを)深くかぶると、ピッチャーだけが見えるんだ。照明とか、センターやショートの余計な動きを見えないようにして、集中するためにやってるのさ」

 週刊ベースボールのインタビューでそう種明かしをしたローズは、96年に故障がちな石井浩郎に代わり四番に定着すると、打率.293、27本塁打、97打点で外野手ベストナインに選出された。今となっては意外にも思えるが、マイナー時代は年間32盗塁を記録した俊足の外野手として鳴らし、近鉄でも97年に22盗塁をマーク。三拍子揃った好選手だったが、人工芝の多い日本の球場でのケガ防止のため本格的にウエート・トレーニングを始めてから、ローズの野球人生は大きく変わる。

 30歳を過ぎて打球の飛距離が飛躍的に伸び、ホームランバッターとして開花するのだ。4年目の99年は前年22本からほぼ倍増の40本塁打、101打点で二冠獲得。中村紀洋と“いてまえ打線の中軸を担い、01年には王貞治の記録に並ぶ55号を放ち、近鉄最後のVに大きく貢献する。その一方で死球に怒り乱闘を引き起こす常連で、判定を巡り審判に暴言を吐き、クロスプレーでは捕手に激しく体当たりして揉め事に。“陽気さ”と“気分屋”は紙一重だ。55号達成後のダイエー戦では敬遠攻めにあい、「記録を守りたいなら、それでいい」と吐き捨てた(もっともこの件に関してローズは被害者で、後日パ・リーグ会長からダイエーに厳重注意)。私生活ではバイクが趣味で高速道路をかっ飛ばし、01年のMVP獲得時には、カワサキモータースジャパンから特別仕様の1500cc大型バイクを贈呈された。大阪ミナミの行きつけの焼き鳥屋では、好物の焼酎を嗜み、日本のテレビドラマや映画も好んで見た。近鉄特有の自由なチームカラーがローズのライフスタイルには合った。いい時代だったという表現はイージーだが、ユルい時代だったことだけは確かだろう。

 ユルいと言えば、近鉄の球団経営もユルかった。当時、阿倍野のアポロビル内金券ショップで近鉄株主優待券を300円で買うと、なんと大阪ドームのほぼすべての券種は半額で購入できた。90年代の球団赤字額は年間17〜18億円。2000年運営費の赤字額は35億円にまで膨れ上がり、ローズが51発を放ち3度目のキングを獲得した03年頃には、すでに経営状況は限界を迎えつつあった。その高額年俸は大きな負担となり、タフィ・ローズは8年間を過ごした愛しの近鉄バファローズを去ることを決断するのだ。

“史上最強打線”の一員に


 新天地の巨人では推定年俸5億5000万円の2年契約と報じられたが、入団会見で出来高を含めると年間10億円近い大型契約だと口にしてしまい通訳が慌てて否定する場面も。それでもローズの実力は本物だった。巨人のプレッシャーに負けず、いきなり45本塁打を放ち、自身4度目にして外国人選手初の両リーグ本塁打王に輝いてみせた。さらにFA権を取得して日本人選手扱いになり、「生涯巨人」を宣言する。

 それにしても04年堀内巨人の259発メンバーは豪華だ。打線の中心はローズと小久保裕紀の移籍組。キング獲得のローズにはわずかに及ばなかったものの、小久保も41本塁打で巨人の右打者として初めて40本に到達した。生え抜きでは当時29歳の高橋由伸と25歳の阿部慎之助が3割、30本塁打をクリア。さらにヤクルトから来たペタジーニが下位打線で29本塁打。一番・仁志敏久も28本塁打。さらに二番・清水隆行、八番・二岡智宏がいる切れ目のないオーダーだった。これに加えて、ベンチには清原和博江藤智といった歴戦のスラッガーが控えているわけだ。90年代の長嶋巨人時代から続いた、バランス度外視でひたすらビッグネームを掻き集める大型補強のピークと限界がこの年だったように思う。球史に残る259本塁打と90年代からミスターが追い求めた理想が現実になった。でも、巨人は勝てなかった。

堀内監督から「手抜きは許さんぞ」


「ローズはバッティングではすごかったけど、守備で手を焼いた。(外野守備走塁コーチの)弘田(澄男)と、意見が対立して、ケンカになった。それでも、解雇できない契約になっていたのでね。彼には被害妄想の気があって、俺ばかりが差別されるという先入観があった。そんなにゴネるのなら、俺のところへ連れて来い、といったら、福岡ドーム(現PayPayドーム)のハンバーガー店へ逃げ込んでしまった。通訳が迎えに行っても出て来ない。でも、次の日に来た。打って結果を残しても、手抜きは許さんぞと言ってやりましたよ」

 のちに週刊ベースボールの取材に当時の監督、堀内恒夫氏はこう答えているが、事件は2005年4月26日のヤクルト戦(福岡ドーム)で起きた。同点で迎えた9回表、ラミレスの打球はローズが守っていた左翼方向に飛ぶも、背番号20はグラブを上げただけで、この打球をほとんど追わず巨人は勝ち越し点を許す。ベンチに帰ると、弘田コーチが本人に直接とがめたが、ここでローズはキレてしまう。弘田コーチの胸ぐらをつかんで暴れ、帰りの通路で報道陣に「ジャイアンツ大嫌い! トーキョー帰る!」なんてまくしたてた。結局、首脳陣批判に球団から罰金200万円を科せられる騒動となり、チームは崩壊していく。堀内監督と主砲・清原の関係も悪化し、夏場のハイタッチ拒否事件へとつながっていくわけだ。この年のローズは痛めていた右肩の手術のため8月に帰国。打率.240、27本塁打という寂しい成績で05年終了後に退団することになるが、事実上、巨人生活はあの舌禍騒動によってピリオドが打たれたと言っても過言ではないだろう。

NPBでは07年から09年まで着たオリックスでのユニフォーム姿が最後になった


 帰国後のローズは37歳にしてメジャー復帰を目指したがかなわず、3月に現役引退を表明。だが、1年のブランクを経て07年春季キャンプのオリックス入団テストで身体を絞り合格すると、いきなり42本塁打、08年には40本塁打に加え、118打点で自身3度目の打点王と見事に慣れ親しんだ大阪の地で復活を遂げる。開幕戦のミーティングで「ゼッタイ、カツゾーッ!」と声を張り上げナインを鼓舞。本拠地の試合では、神戸市内の同じマンションに住む外国人選手たちを自身のRV車に乗せて送り迎え。「外国人も日本人も関係ない、チームメートだ」と東京遠征では裏方も含め10人以上を連れて食事へいくこともあった。

 27歳で来日して、41歳まで日本でプレー。脅威の日本球界在籍13年連続となる20本塁打を記録。通算464本塁打は外国人選手歴代1位、退場回数14度もNPB最多だ。近鉄の“いてまえ打線”、巨人の“史上最強打線”、オリックスの“ビッグボーイズ打線”と平成球史に名を残した強力打線の中核には常にこの男の名前があった。15年には、46歳で独立リーグ富山GRNサンダーバーズに入団。6年ぶりの来日でファンを喜ばせた。なお、誰よりも日本に順応して結果を残したローズは、眠りについた夢の中でも日本語を話していたという。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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