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パンチ佐藤の漢の背中!

「遠山奬志さんのような存在でありたい」ラーメン店を経営する元ベイ育成右腕の小林公太さん/パンチ佐藤の漢の背中!

 

横浜ベイスターズの育成選手として3年間を過ごしてから渡米。野球引退後はラーメン修業を積み、現在は都内で「俺の生きる道」を経営している小林公太さん。茨城ゴールデンゴールズの片岡安祐美選手兼任監督の夫でもある。グルメリポーター歴豊富なパンチさんが訪ね、そのラーメンに舌鼓を打ちました。
※『ベースボールマガジン』2020年11月号より転載

東京六大学受験を目指すつもりが……


小林さんが経営するラーメン店の前でパンチ氏(左


 少年時代、小林さんの実家のほど近くに東京競馬場があった。小中学校と、野球チームに入っていたが、一向に背が伸びず、チームの補欠にすらなれなかった。

「これじゃあ、野球で先はないな」

 幸い運動神経には自信があったので、JRAのジョッキーになろうと思い立ち、中3になったとき願書を出した。ところがその夏から、身長が一気に伸びた。結局、野球を続けることになり、地元の私学進学を決めた。

パンチ 多摩大聖ヶ丘高校を選んだのはなぜ?

小林 ちょうど僕と入れ替わりの先輩に、福田(秀平=現ロッテ)さんがいたんです。文武両道を掲げていてスポーツ推薦もない学校なんですが、福田さんがソフトバンクにドラフト1位で入団したこともあって、注目されていたんですよ。僕は勉強もしたかったので、ウチの高校を選びました。

パンチ 高校より先のレベルで野球をやれるかも、と思ったのはいつごろですか?

小林 高校3年の夏ですね。予選でノーヒットノーランもしました。

パンチ 1、2年のときと比べて、何が一番伸びた?

小林 高2の秋には、140キロぐらい投げていたんです。ウチの学校は進学校で、高卒での就職はほとんど認められなかったので、受験で六大学に入って野球を続けるつもりでした。でも、その高2の秋、監督に呼ばれて「お前は力があるから、プロを目指せ」と言われまして。

パンチ 高2の秋までにスピードが伸びたのは、考え方やトレーニングを変えたところがあったから?

小林 僕は小、中学とずっと体が小さかったので、ピッチングにしても遠投にしても、体全体を目いっぱい使って投げていました。じゃないと、身長180センチの子なんかに太刀打ちできませんからね。

パンチ 小さいときから、投球動作の基礎が身についていたんだね。

小林 そうですね。基礎があって、そこから体が大きくなったので。最初から体の大きな子は小手先だけで投げられるけど、僕の場合はそれがなかったから体全体で投げてきて、体が大きくなったとき他がついてきたというのが、一番大きいと思います。

パンチ しかし、普通だったら守りに入るというかさ。「六大学志望なら、早慶受けてみるか?」とか言いそうなのに、その先生の判断は素晴らしかったね。どこを見て、「プロでやれるぞ」と先生は思ったんだろう?

小林 六大学と東都大学の関係者がずっと見に来てくださっていたそうですよ。ただ、プロはまったくと言っていいほど来なかったと聞きましたし、先生もプロの関係者に知り合いはいなかったと思います。

パンチ じゃあ、なんでそんなギャンブルじゃないけど、高卒でプロに行く道を選んだの?

小林 僕、(横浜ベイスターズに)入団テストで入ったんです。一般参加できるテストだったので、受験生が150人程度いて、まさか自分が受かるとは思ってもいませんでした。ダメでもスカウトの方に名前だけは覚えてもらって、大学に行ったあと見てもらおうという魂胆で、テストを受けたぐらいなんです。そうしたら、受かってしまって……。せっかく受かったんだし、もし大学でケガでもしたら野球ができなくなるかもしれない。プロに行くなら今しかないかもしれないな、と思いました。

パンチ プロに入って、まず何を感じた?

小林 キャンプの初日にもう、「これはヤバいな」と思いました。同期入団の筒香(嘉智=現レイズ)にインコースの高めを、バットを折りながらバックスクリーンにぶつけられて、「こんなヤツ、いるの!?」と驚きました。ピッチャーでは寺原(隼人)さんがブルペンでドエラい球を投げているのに、マウンドに上がったら打たれる、とか。「ここは、俺が来ちゃいけないところだった」と思いました。

パンチ やっぱりピッチャーは、少し勘違いするぐらいのヤツじゃないとダメなんだろうなあ。

小林 そう思います。結局、3年でクビになりました。

NPB退団後は海外武者修行の連続


インディアンス傘下のマイナーでプレーしていた2013年当時(写真提供=小林公太さん)


パンチ その3年間で学んだこと、得たものは何だった?

小林 得たものはたくさんありました。年の離れた先輩方に、ものすごくかわいがっていただきまして。山本省吾さんとか江尻慎太郎さんとか、プロで生きていく技を、惜しげもなく僕に教えてくださいましたね。

パンチ 具体的に言うと、どんなことが印象に残っている?

小林 初球、真っすぐから入るか変化球から入るかでどういう違いがあるのかといった投球術とか、けん制球の際のプレートの外し方とか。僕はずっと横に外してきたんですが、前に外したほうが体の回転が速くなって、けん制球も速くなるのが分かりました。

パンチ それは勉強になっただろうね。その後、どうしてアメリカに渡ったの? BCリーグとか、選択肢はいろいろあったでしょう。

小林 トライアウトで、たまたまインディアンスに声を掛けてもらったんです。せっかく一度プロ野球選手になれたんだし、アメリカで野球をやるなら今しかない、と思いました。

パンチ 生き方が、常にチャレンジャーだよね。

小林 そうですね。チャレンジはしています。ただ、行ったら行ったで、さらにバケモンみたいな選手ばかりだったんですよ。どこかの国から来た選手がいきなり160キロの速球を投げるとか。

パンチ マイナー・リーグで、だよね?

小林 でも、そんなのばかりなんです。それで、僕は1年でクビになりました。

パンチ そのときは、もうスパッと気持ちを切り替えられた?

小林 はい、切り替えました。ベイスターズにいたとき、佐伯(貴弘)さんにお聞きした話が、そこでよみがえってきて……。

パンチ 佐伯って、メカゴジラ?

小林 そうです。僕、佐伯さんにもとても良くしていただいていて、佐伯さんがベイスターズを辞める前、ウエート・ルームで話をしたんです。そこで佐伯さんに、「いいか。結果に後悔しても、結果を残す準備に後悔するなよ」という言葉をいただいて、それがとても心に響きました。ベイスターズにいたときは、周りに流されて遊んでしまったこともあったんですが、アメリカではとにかく一度野球だけに打ち込んでみようと思って本当に1年間、真剣にやったんです。でも、それでダメだったので、「ああ、俺には野球の能力はないんだな」と気付かされて、スパッと辞めることができました。

パンチ さて、次にどうしようと思った?

小林 そのとき、22歳だったんです。高校の同級生が大学を卒業する年齢ですね。そこで彼らと自分を比較してみると僕の場合、プロの4年間でいろんな経験自体は積んできているけれども、一般社会に出て通用するものが何もなかった。そこで足りないものはなんだろうと考えたら、学力。ちょうどアメリカで1年暮らして少し英語がしゃべれるようになったし、これからの時代、英語ができないとダメだな、足りない学力をまず英語で埋めれば、あとはなんとかなるんじゃないかなと思って1年半、オーストラリアで暮らしました。

 オーストラリア・シドニーに渡った小林さんは、現地の有名和食レストランに職を得た。最初はひたすら皿洗い。やがて料理長に認められ、ホールスタッフ、キッチンスタッフ……とどんどん昇格した。

 そこで料理長に言われたのが、「君は料理の才能があるね」のひと言。ビザが切れて帰国するとき、頭を占めていたのは、「ラーメン屋をやりたいな」という思いだった。

 子どものころから、ラーメン屋の食べ歩きが趣味というほどのラーメン好き。小林さんの語学修業は、思わぬ方向――いや、必然の道だったというべきか――へ、彼を導くことになる。

人生がひっくり返った人気ラーメン店の味


パンチ ひと言でラーメンといっても、とにかくたくさんあるじゃない。その中から、このラーメンに行きついたのはなぜ?

小林 自分が一番好きなラーメンでした。「富士丸」といって、東京の王子神谷にあるんですが。初めて食べたとき、人生がひっくり返りました。

パンチ で、そこに飛び込んだの?

小林 最初は、その「富士丸」で修業した方のところに行きました。それが、アメリカのボストンにあるラーメン屋さんで……。

パンチ なんでラーメン修業がアメリカ? 日本でやればよかったのに。

小林 そうなんです。よく言われるんですが(笑)。僕がプロ野球を引退したとき、周囲の人が大勢離れていったんです。その中で、ある社長さんが僕を見捨てないでくれたというか、いろいろなことを教わった恩師のような方なんですが、「ボストンに面白いラーメン屋があるから、行くぞ」と言って、連れて行ってくださったんですよ。それがきっかけでした。

パンチ やっぱり小林君はハツラツとしていて、いつも前向きだからかわいがられるんだろうな。ボストンでは何を学んだ?

小林 ラーメンを学びに行ったんですが、トントン拍子に「お前、日本で店やりなよ」と言っていただいて、看板を借りる形で、今の場所に「夢を語れ」(前店名)という店を出しました。

パンチ すごいね。なんか、どんどん運を引き寄せているけど、それはなんでだと思う?

小林「負の先払い」といいますか。悪いことと、いいことは繰り返す。いいことが起こるためには悪いことがないと、というのを僕は結構信じているんです。だからベイスターズをクビになっていなければアメリカで野球できなかったと思いますし、悪いことがあったら、そのあと必ずいいことがあると常に信じてやっています。

パンチ じゃあ日本でラーメン屋さんを始めてからも、いいこと、悪いこと、いろいろあったんだ。

小林 どちらかといえば、壁にしかぶち当たっていないような……(笑)。でも、それは単なる実力不足です。ラーメンの味にしても、何が正解か分かっていなかった。それでは、何をつくってもダメですよね。

パンチ その方向性が定まってきたのは、いつごろ?

小林 2年ほどしてからですね。先ほどの「富士丸」に毎週食べに行って、こっそり研究していたんです。そのうちマスターに「お前、ウチにどう?」と誘われて、「僕、店があるので……」と言ったら、「じゃあ、皿洗いだけでもしていけよ」と。マスターが他店の人間を厨房に入れたのは初めてだと聞きました。もちろん、直接教えてくれるわけではなく、ボソボソつぶやいているのを、僕が勝手に拾って勉強させていただいているだけなんですが。

パンチ そこで何年、皿洗いしたの?

小林 今も毎週1、2回、行っています。

パンチ まだまだ修業中なんだね。そのマスターの素晴らしさはどこ?

小林 近寄りがたい雰囲気ですが、いざ話してみると、とてもいい方。ラーメンに関しては厳しく、他人にラーメンのことは基本的に教えたくない。でも、ラーメン屋としてはほとんど苦労知らずの僕を引き抜いて、いろいろ教えてくれるその度量の広さが素晴らしいと思います。

パンチ それは、ラーメンが好きだっていうのと、おいしいラーメンを出したいという気持ちが見えたんじゃない?

小林 マスターにも同じことを言われました。

パンチ やっぱりそういう人には教えるよ。だけどラーメン屋さんって、パっと出てパッと消えるところも多いじゃない。そこで5年、しかも今、このコロナ禍でも踏ん張れているのはなぜだと思う?

小林 父親の影響が強いかもしれないです。ずっと会社をやっていて、自営業のやり方というか、どうやって1人で生きていくかを小さいころから叩き込まれていました。

パンチ 両親の教えが素晴らしかったんだね。感謝しないと。

小林 はい。あとはウチ、コロナの前から冷凍ラーメンの通販をしていたんです。それがいざコロナ、というときに注目を浴びまして……。

パンチ 誰のアイデアで始めたの?

小林 僕が提案して、店を始めたときからやっています。一時期、そんなに売れない時期もあって、親父に相談したんです。そのとき「それは絶対将来的に広がるから、続けておけ」と言われました。だから急にこういう事態になっても、「需要が多くなったら、数を増やせばいいよね」とすぐ対応できました。

「価値観がお金中心じゃない」女性と結婚


片岡安祐美さんとの結婚式(写真提供=小林公太さん)


パンチ 小林君のラーメンは、プロ野球選手でいうと誰?

小林 阪神にいた左のワンポイント・遠山奬志さんみたいな存在でありたいですね。ここ一番できっちり仕事をする、という。

パンチ 今は日々、どんなことを考えていますか?

小林 いろいろなことを考えますね。うちのメーンのお客さんは、学生とサラリーマン。学生のころ、すごく明るくて生き生き、ハツラツした顔をしたお客さんが、2、3年してサラリーマンになってまた店に来ると、学生時代とは違ってものすごく暗い顔をしているんです。「どうした?」と聞くと、「いや、もう仕事が大変で」って。なんでそうなんだろうなって、今結構考えています。答えは出ていないんですが(笑)。

パンチ 僕も芸能界に入って、野球解説者でもないし俳優でもない、芸人でもない、自分は何なのかって考えたとき、「俺は元気配達人というポジションで頑張ろう」って思ったんだよね。

小林 素晴らしいです。

パンチ 小林君も、まさしく「ラーメンで元気を発信しよう」と考えているんじゃないの?

小林 そうです。創業当初から、ラーメンで勝負はしないと決めていて。「ラーメンよりも人で勝負する」っていうのが、この店のコンセプトです。

パンチ ラーメンは鶏ガラ、豚ガラ、人柄って言うからね(笑)。ところで、読者はみんな、奥さんの片岡安祐美さん(茨城ゴールデンゴールズ)のことが気になると思うんだけど、どうやって出会ったの?

小林 オーストラリアから一時帰国したとき、知り合ったんです。僕、ベイスターズ時代のイースタン混成チームが茨城県の大会でゴールデンゴールズと対戦したことがあって、一方的に知っていたので、そんな話をして、そこから仲良くなりました。

パンチ それが結婚まで至った、決め手はなんだった?

小林 ここを始めるとき開店資金がかなり必要で、借金が相当あったんですよ。でも、それにもかかわらず一緒にいてくれたので、「あ、この人、価値観がお金じゃないんだな」と思いました。この人だったら、ずっと支え合っていけるなと。

パンチ やっぱり熊本の女性は強いね。家では野球の話をするの?

小林 家では野球の話をしないことにしています。絶対ぶつかるんです。ぶつかるのが分かっているんだったら、最初から野球の話はしないほうがいいだろう、と。

パンチ なるほどね。じゃあ、将来の2人の夢は何?

小林 それぞれあります。向こうは女子野球を発展させたいという夢があるので、僕もそれは応援してあげたいなと思っています。僕は、野望的な夢だと、いつか自分の馬でG1に勝ってみたいんですが……(笑)。

パンチ その前に、ラーメンで元気をたくさん届けないとね。俺はもう元気配達人は引退したから、あとは小林君がラーメンで元気配達してよ。

小林 大切な役目を受け継がせていただいて、ありがとうございます!

パンチの取材後記


 対談後、「俺の生きる道」自慢のラーメンをいただきました。「若い男性向け」ということで、全体の量は通常の2.5倍ほど。チャーシューも大きかったなあ。ワシワシの太麺に絡むスープは見た目ほどギトギトではなく、55歳の僕でもきっちり完食できました。聞くと、昼間もサラリーマンのお客さんが来るので、「あまりギトギトすぎるとあと、仕事にならないから」と少し軽めに仕上げているのだとか。心遣いがいいですねえ。

 小林君は全身からファイト、情熱、やる気……前向きな気持ちがバンバンあふれ出ている青年でした。人生、いいときも悪いときもある。でも、確か片岡さんの師匠・萩本欽一さんも言っていましたよね。「不運なときこそチェッと思うんじゃなく、幸せ銀行にまた貯金ができたぞと喜びなさい」と。それをあらためて、彼から学びました。しかし、お腹いっぱい食べると笑顔も出るし、元気になるね。今回はいい話とラーメン、ごちそうさまでした!!

●小林公太(こばやし・こうた)
こばやし・こうた◎1991年9月1日生まれ、東京都出身。多摩大聖ヶ丘高から育成ドラフト2位で2010年に横浜ベイスターズに入団した右腕投手。3年間のNPB生活ののち、13年はプエルトリコ、米マイナー、米ハワイ州の独立リーグなどでプレーした。その後は米国内でラーメンの修業をし、現在は都営三田線白山駅前のラーメン店「俺の生きる道」(東京都文京区白山5-36-14)の店主。妻は片岡安祐美さん(茨城ゴールデンゴールズ選手兼監督)

パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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