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プロ野球はみだし録

「ねたみもあったかも」阪急の若き日本一エース、山田久志が27歳で引退を考えた理由【プロ野球はみだし録】

 

開幕投手を託されながら


阪急・山田久志


 1988年に歴史の幕を下ろした阪急。その歴史は新生オリックスに受け継がれたとはいえ、時代が昭和から平成へ変わった時期とも重なり、一時代が終わったという印象も強かった。その阪急の終焉とともに現役を引退したのが山田久志だ。プロ野球を代表するアンダースローで、阪急の黄金時代を象徴するエース。プロ野球が始まった36年に参加しながらも長く歓喜とは無縁だった阪急が初めてパ・リーグを制したのは67年で、以降3年連続でリーグ優勝を飾ったが、当時のセ・リーグでは巨人がV9という空前絶後の黄金時代にあり、日本シリーズでは3連敗。山田が阪急に入団したのはリーグ3連覇、日本シリーズ3連敗の69年シーズン途中だった。

 70年は4位に終わった阪急だったが、翌71年からはリーグ連覇。だが、やはり日本シリーズでは巨人に2連敗、73年からパ・リーグには前後期制が導入されると、阪急はプレーオフで73年は南海(現在のソフトバンク)、74年はロッテに敗れる。ふたたび阪急が日本シリーズに進出したのは75年で、広島を下して初の日本一に輝いた。このシーズン、初めて開幕投手を任されたのが山田だ。74年も指名されながらヒジ痛で辞退しており、満を持しての栄光のマウンドだった。まだ27歳の若武者だ。だが、そんな山田は引退を考えていたという。

「山口(山口高志)が出てきてね。みんな山口に注目して、置いてけぼりをくらったみたいな気がした。ねたみもあったかもしれない。こんな自分も嫌だったんで、やめたろか、と思った」(山田)

 実際、新人の山口が投じた剛速球は史上最速とも評され、前期優勝もプレーオフも胴上げ投手は山口だった。山口はペナントレースで新人王、日本シリーズではMVP。対照的にトレードの話まで出ていた山田の心が曇るのも無理はなかった。ただ、最終的に残留が決まると、「見とけ、絶対に見返したる、と。シンカーを覚えようとしたのも、そのとき。それまではストレートとカーブだけだったからね。体も鍛え直したよ」(山田)。

 翌76年、山田は自己最多の26勝を挙げて2度目の最多勝に輝くと、以降3年連続MVP。開幕投手も86年まで続いた。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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