打球は、意地悪な高さに跳ねた。
三嶋一輝が後退しながら飛びつく。
体勢を整えている余裕はない。送球はアバウトにならざるをえない。
2点リードの9回表、2アウト。二塁と三塁から走者はすでに駆け出している。
この打者を生かしてしまえば、1点差。いや、ミスが絡めば同点か。さらにネクストバッターズサークルには、カープの主砲、
鈴木誠也が控えている。
いくらでも悪い想像はできた。開幕から9戦目、いまだ勝ちなし。終盤に追いつかれ、追い抜かれた生々しい記憶。雨粒を落とす鈍色の雲。どんなに押さえつけようとしたって、不気味な予感は消せなかった。
白球をぴゅっと投じる三嶋の姿を見つめながら、一塁手、
牧秀悟の心臓は強く脈打った。やや低く逸れた送球を無心でつかむ。その瞬間、ファーストミットの中に収まった球体は、いくつもの意味を帯びて重くなった。
2021年4月4日、ベイスターズが今シーズン初めて勝った日。
三浦大輔監督にとっての初勝利。先発、
阪口皓亮のプロ初勝利。
ファンが待ちに待った、一つの勝利。
笑顔で喜びの輪に加わった牧は、「すぐ目についた」という理由で
戸柱恭孝にウイニングボールを手渡した。それは三嶋から三浦監督へ、そして阪口の手に渡る。ヒーローインタビューを受けた阪口は言った。「女手一つで育ててくれた母に」。やさしき心のリレーにふさわしいゴール地点だ。
結果で心を鷲づかみにした。
その日、5回無失点と力投した阪口、攻守に見せ場をつくった
神里和毅と並んで、牧は初めてお立ち台に上がった。
「長野県から来ました、牧秀悟です」
第一声は新人らしく初々しい。だが、開幕からの3カード、フル出場のすえにたたき出した数字が並ではない。
打率.405。リーグ単独トップの10打点。得点圏打率.545。開幕から9試合連続出塁。白星が遠い日々、希望の灯となり、観る者の心を結果で鷲づかみにした。
白線をまたいで打席に入るとき、ルーキーはルーキーでなくなる。本人いわく「スイッチが入る」。年齢も年数も意味を持たぬ場所に、ただバッターとして屹立する。
開幕する前から、たしかに牧への期待は大きかった。実戦が始まるや力を示し、評価を高めた。
ただ、3月の中ごろから調子は下降線だった。14日のイーグルス戦で
田中将大から2安打を放ったが、その後のオープン戦と練習試合では16打数1安打。
「何でだろう。しっかり振ってもファウルになるし……」
思い悩み、動画を見返した。打てていない自らの姿に「迷い」を見た。
「全部の球をきれいにヒットにしようとしているところが出ていたので。(そうではなく)しっかり振ったなかで、ヒットになればヒット。そういう気持ちの切り替えができた」 ヒットを打とうとしてバットを出すのか。まず自分の型に忠実なスイングをするのか。後者こそが求めるべきものだと再確認することで、復調へと向かった。
そこにはおそらく、
佐野恵太の助言が効いている。春季キャンプ中、打撃について尋ねられた主将は、こう答えた。
「まずは自分のバッティングを見つけて、それを貫くことが大事」
シンプルな言葉が、崩れかけたルーキーの支えとなった。
塁上で人差し指を立てた理由。
3月25日、牧は監督室に呼び出され、そこで開幕戦でのスタメン起用を告げられた。
三浦監督は言った。
「1年目で開幕スタメンは荷が重いけど、自分らしく、思いきってやっていいから」
同席した
青山道雄ヘッドコーチからも「ミスを恐れず、がんばれ。期待してるぞ」と背中を押された。牧は一言、「がんばります!」とだけ返した。心の中では、うれしさに微かな不安が交じっていた。
翌26日、3番・一塁手として開幕戦に臨んだ。初回、プロ初打席の初球、ジャイアンツの
菅野智之が投じた150kmの直球に空振り。5球目、内角に食いこむツーシームを打たされ、サードゴロに倒れた。
「緊張と、舞い上がってる自分がいて。初球を振れたのはよかったけど、ただ振っただけというか。がっついただけ、みたいになってしまった」
開幕戦での初ヒットは生まれず、2戦目も第3打席まで無安打(2三振)。始まったばかりとはいえ、凡退するたび追い詰められた。
「オープン戦のときとはまったく違う焦りといいますか……。早く一本ほしい、早く一本ほしいというのが本音で。振っても前に飛ばず、という感じで焦ってました」
第4打席も当たりは悪かった。ただ、打球は詰まりながら一塁手の頭を越えて内野安打に。これが牧の気持ちを楽にした。
「安心したのもあって」3戦目から打棒に火がつく。第1、第3、第4打席と安打を重ねて初の猛打賞。初回のチャンスに三塁線を破るタイムリーツーベースを放った際には、二塁上から自軍ベンチに向かって右手の人差し指を立てて見せた。
自分なりの思いを込めたしぐさだった。
春季キャンプ中の2月17日、スワローズとの練習試合。試合前に組む円陣での声出し役に指名された。若手から順番が巡ってくるとは聞いていたから、最低限の準備はしていた。それでも、いざ先輩たちに包囲されると、言葉は「カミカミで何を言ってるかわからなかった」。
最後のキメだけは計画どおりに実行した。
「声出しをやるとき、ちょっと人と違ったことをやりたいな、と。『横浜一心』がスローガンなので、皆さんに『一』を(人差し指を立て)掲げてもらいました。そこで『さあ、いこう!』って。だからあれは、自分だけのポーズみたいな」 初めてタイムリーを打った場面で、それを再び繰り出したのだ。ベンチの選手たちも同じポーズで応えた。「正直なところ、自分のことで精いっぱい」と言いながら、その精いっぱいの姿がチームを一つにした。
大和からのメッセージ。
続くスワローズとの3連戦では、左翼席に突き刺すプロ第1号ホームランも生まれた。
だが、牧が最も印象に残っている打席として挙げるのは、それではない。4月1日、カード3戦目の第2打席だ。点を奪い合う荒れ模様の試合展開。2回裏、2点ビハインドながら満塁のチャンスに打席に立ったのが牧だった。
粘って、粘って、10球目。低めの変化球を捉えて右中間を破るツーベースを放ち、3人の走者を本塁に送り込んだ。
「あの打球がいちばん好き。引っ張る打球よりも、右中間にきれいに飛んでいく打球。自分がずっとイメージしている打球なんです。逆転もできて、最高でした」
常人なら結果を求めて慎重になりがちなチャンスの場面でこそ、牧の特質は発揮される。重圧を集中力に変え、積極性と確実性に磨きがかかる。その点に関しては、学生時代から「自信があった」。
着々と打点を積み重ねているものの、打者のコンディションは繊細だ。理想のツーベースを打った試合の最後の2打席は連続三振で、その後のカープとの初戦も無安打に終わった。
2戦目の第1、第2打席で凡退した牧は、悩み始めていた。ベンチに戻ると、たまたま隣に座っていた
大和に尋ねた。
「自分、どんな感じですかね……」
大和は低い声で簡潔に答えた。
「牧、変えんなよ」
伏線がある。
開幕カードのジャイアンツ戦。その試合前練習の合間に、牧は大和に質問をぶつけていた。コンディショニング、試合に臨むための準備をどうしているのか。チーム最長、キャリア16年目のベテランの経験を自身に生かそうと考えたのだ。
大和は言った。
「1年目は、いいところを伸ばしていくことが大事。年を取るにつれて自分の悪いところっていうのはわかってくるから。バッティングにしろ、守備にしろ、いまは自分の悪いところを直そうとするのに時間を使うんじゃなくて、いいところをどんどん伸ばすことを考えたほうがいい。変えずに、自分らしいことをやっておけば大丈夫だよ」 周囲に助言を求め、成長の糧とすることは言うまでもなく重要だ。ただ、耳を傾けるあまり、変えるべきでないものを変えてしまう可能性もある。大和は、吸収の意欲を見せる若者を前にして、あえて「そのままでいい」とメッセージを送ったのだ。
カープ戦で凡退し、ベンチに帰ってきた牧の心はきっと見透かされていた。結果が出ない打席が続いた。何かを変えなきゃいけない。そう思い始めていた22歳にクギを刺すため贈った一言が「牧、変えんなよ」だった。
「乗りに乗ったら止まらない」
佐野も、大和も、三浦監督も、説いた言葉の本質は共通している。迷いを捨て、ただ自分らしく――。牧秀悟というありのままの素材に魅力を感じているからこその助言だろう。
すでに熟達した打者は、萎縮を好まぬチームに飛び込む幸運を得て、翼をのびのび羽ばたかせている。少なくともここまでは、それが最高のパフォーマンスを発揮するキーとして機能している。
牧は好調の要因をこう自己分析した。
「自分自身、振れてるっていうのはたしかなので。初球から自分らしいスイングができてますし。ピッチャー始動で始まるんですけど、後手にならずにできている。1年目という特権を使って、思いきってやれてるのかなって」
早くも3度目の猛打賞でヒーローインタビューを受けた4月4日、待望の勝利の味を噛みしめるファンに向けて牧は言った。
「乗りに乗ったら止まらない。それがベイスターズだと思うので、これからもよろしくお願いします!」 ようやくつかんだ1勝目は、好転の契機となるか。
6日から始まる名古屋でのドラゴンズ戦、全員の力で上昇気流を巻き起こしたい。
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