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翌季の監督は誰に……きな臭くなってきた監督事情(セ・リーグ編)/週べ回顧1972年編

 

 3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

巨人、中日以外に監督交代のウワサが


大洋・青田昇


 今回は『1972年10月2日号』。定価は100円。

 1972年のペナントレースも終盤戦となっていたが、セ、パともに例年になく監督人事がきな臭くなっていたようだ。
 今回はセ・リーグを紹介しよう。

 まずは別当薫監督が休養し、青田昇コーチが監督代行となった大洋だ。
 このチームの場合、将来は大功労者・秋山登の監督就任が既定路線となっていた(当時コーチ)。周囲では、翌73年は青田が監督か、秋山が監督で青田がヘッドか、と言われていたが、9月16日、中部謙吉オーナーが突然、
「来シーズンは青田君か宮崎君のどちらかにやってもらう」
 と発言した。宮崎とは、二軍監督だった宮崎剛である。
 青田が代行監督となっても連敗が止まらず、「宮崎に頼るしかない」となってきたらしい。

 宮崎は大洋のご意見番的存在で、中部オーナーの信頼が厚い。かつて三原脩監督時代、さらに前年も別当薫監督の下へ中部オーナーの指示でヘッドコーチとして送り込まれたことがある。
 中部オーナーとしては、今の戦力のままでは翌年も優勝は難しい。ならば、かわいい秋山を監督にさせても傷をつけるだけ、という思いもあってだったようだ。また大洋球団内には、
「宮崎さんの功績に報いるため一度は監督になってほしい」
 という声も多かったという。

 阪神は代行をしていた金田正泰コーチの昇格か、村山実監督が兼任を外し、専念か、と言われていたが、この話はまだもめるので、いずれ別の機会で。

 広島は途中で根本陸夫監督が休養し、森永勝也が指揮を執っていた。球団の重役たちは元南海監督で広島出身の鶴岡一人の招へいを希望していたらしいが、松田耕平オーナーは慶応大時代の同期生で大洋監督を退任したばかりの別当薫に声をかけていたようだ。

 3年契約があと1年、残っているヤクルト・三原脩監督だが、糖尿病の持病もあり、この年限りの退任もささやかれていた。後任は三原の義理の息子でもあるヘッドコーチの中西太とも言われていたが、松園オーナーはサンケイの解説者でもあり、元巨人広岡達朗の招へいに熱心というウワサもあった。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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