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平成助っ人賛歌

「誇りに思う野球人生」星野楽天を初日本一、低迷期の由伸巨人を支えた心優しきC.マギー/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

楽天で日本一を達成


17、18年に主軸として巨人をけん引したマギー


「外国人なのに『一番センター』というのが、カッコよかったですよね。助っ人ではあまりいないタイプでしたから。俊足で守備もうまくて、憧れていました」

『週刊ベースボール』2013年4月29日号、「球界200人が選んだ“最強”助っ人」特集のアンケートにて、シェーン・マックの名前を挙げたのは西武時代の秋山翔吾(現レッズ)だった。90年代中盤、巨人に在籍したマックは同僚からの評価も高く、あの落合博満が自著『野球人』(ベースボール・マガジン社)の中で、「私が現役時代に出会った最高の外国人選手と言っても過言ではない。とにかく野球に対して真面目。試合でも練習でもよく悩んでいたが、その悩みのレベルも高く、悩みを解消するのも早かった。どんなに年俸が高くても置いておきたい選手」と絶賛している。なお、幼少期に巨人ファンクラブ会員だった菊池雄星は、「初めて東京ドームへ行ったときにけん制で140キロを計測し、『こいつはヤベェ』とファンになった」なんつって懐かしのヘクター・アルモンテを思い出して笑うのであった。

 さて、その助っ人特集号が発売された13年に日本へやってきたのが、ケーシー・マギーである。12年12月、一部スポーツ紙では「巨人と契約」とまで報じられるも、直前で楽天のオファーを選んだ。2010年にはブリュワーズで23本塁打、104打点を記録するも、メジャー複数球団を渡り歩く内に30歳になっていた。これからはトレードで動かされるより自分で主体的に動いてみようと思い立ち、日米問わず三塁手として出場機会が保証されている環境を探していたのだ(なお、マギーを逃した巨人が年明けに獲得発表したのがホセ・ロペスである)。来日前、カブス時代の同僚で日本ハムでのプレー経験がある、マイカ・ホフパワーに日本のことを聞くと、「とにかく明けても暮れても“レンシュウ”だ」と、おどされたという。

楽天で日本一を達成した後のベンチで。かけがえのない仲間とつかんだ栄冠だった(左から嶋、銀次、マギー)


 13年シーズンは、田中将大が24連勝を記録して楽天を球団初の日本一に導くことになるが、攻撃陣の核は“MJ砲”こと26本塁打、94打点の四番アンドリュー・ジョーンズと、28本塁打、93打点でフル出場を果たした五番マギーだった。故・星野仙一監督から「どんな状態であろうが、毎試合プレーしてくれ」と声を掛けられ発奮した助っ人は、シーズン終盤になると「来年、ボスはどうするんだ? 俺はボスのいるところでやりたい」なんて明言するほど闘将との関係は良好で、日本一記念の腕時計も贈られた。若手選手のエラーを叱る自軍コーチに対して、「あんなに打っているじゃないか」とかばい怒る背番号3。間に入ってなだめたのは、なんと星野監督だったという。

2017年に巨人で日本球界復帰


 愛する息子が先天性の脳性麻痺という家庭の事情もあり、1年限りで退団するとメジャー復帰。14年にはマーリンズで177安打を放ち、打率.287、4本塁打、76打点をマークし、カムバック賞に輝いた。『週刊ベースボール』14年8月11日号の外国人特集号では、マーリンズ時代のマギーの貴重なインタビューが掲載されている。「食べ物といえば選手の奥さんたちが、ときどきワイフに日本料理を教えてくれたりしていたんだ。フジタさん(藤田一也)のワイフが教えてくれたヤキソバは、今でも週に1度は作って家族で楽しんでいる」なんて日本生活や楽天時代を楽しそうに振り返るマギー。

「ファイターズのいる北海道は、いつも楽しみだった。実は大のカニ好きでね。アメリカ国内でもカニは食べられるけど、北海道のカニは今まで食べたことがないほどの絶品。ついにはワイフも好きになり『次はいつファイターズ戦があるの?』なんて始末さ(笑)」

「タナカのピッチングはほかの投手たちと比べて群を抜いていた……というより神がかっていたと思う。彼の登板日には、チームだけでなく組織、ファンまでもがより一丸となっていた。あの雰囲気の中でプレーさせてもらったことは野手冥利に尽きるし、生涯の宝だよ。あの力投は、何十年後の子孫にまで語り継がれて、それでも色褪せない、まさにレジェンドだと思う」

「オープン戦で不調を見かねたタシロ・コーチ(田代富雄打撃コーチ)が、まず『変化球はボールの上(頭)を見ろ。そしてそこを目いっぱいたたけ』と指導してくれた。それを実践していると、今まで打ち上げていたボールが強い打球へと変化する手応えを感じた。と同時に、ダウンスイングを徹底され、また、より早いインパクトのためにグリップの位置や体重移動なども矯正された。どんなカウントでも変化球に対応できるスイングをマスターしたことは、日本でプレーして得た大きな収穫だったね」

 メジャーでの復活劇も、「フィールドを目いっぱい使って球をたたけ」というタシロ・コーチの教えのおかげで本当に感謝していると語ったマギーは、メジャー複数球団を渡り歩いたのち、17年に4年前の日本シリーズで名勝負を繰り広げた巨人でNPB復帰。春季キャンプにぽっちゃり体型で現れ不安視されるが、休日返上の打撃練習に加え、二塁守備練習もこなし周囲を驚かせる。ペナントで球団ワーストの13連敗を記録したチームは、7月12日のヤクルト戦で一塁阿部慎之助、三塁村田修一と併用する「二番・二塁マギー」のスタメン起用を解禁。打率.315、18本塁打、77打点はチーム打撃三冠トップ。第87代四番打者を務め、首位打者争いを繰り広げて、ときに同僚の外国人選手に活を入れながら、セ・リーグ新記録の48二塁打を放った。

阿部と岡本の谷間をつないで


巨人では背番号「33」を背負ってプレー


 暗いニュースが多い当時のチームで、背番号33のユニフォームを着た美女モデルのマギーが東京ドームで始球式を務め、それを後ろからなぜか照れ笑いを浮かべながら赤面して見つめる二塁手マギー……というなんだかよく分からないけど微笑ましい風景はいまだに語り草だ。それでも由伸巨人は球団11年ぶりのBクラスに沈み、07年から続いていたCS連続出場も途切れる。オフには若返りを理由にベテランの村田修一が自由契約で去った。長いペナントレースは勝ったり負けたりを繰り返すように、永遠に勝ち続ける組織など存在しない。いいことばかりはありはしないのだ。あの頃、若き大砲・岡本和真は二軍生活中で覚醒前夜、G党の数少ない希望がマギーのバットだった。

 翌18年、35歳のマギーは交流戦から打撃不振に陥り、6月9日の西武戦からは8試合連続でスタメンを外れ、ルーキー田中俊太の三塁起用が続く。危機感を抱いた背番号33は21日イースタン・リーグのロッテ戦に志願出場。リーグ戦再開後は5打席連続安打を記録するなど復調すると、最終的には打率.285、21本塁打、84打点の成績を残してみせた。

 だが、世代交代の流れからマギー自身も逃れられなかった。10月12日に36歳の誕生日を迎えた約1週間後、CSで広島に3連敗を喫し、試合後ミーティングで号泣。同僚たちと別れの握手を交わしたという。帰国の途に就くマギーは空港で「現役引退を示唆」と当時のスポーツ報知は報じている。「1歳トシをとったことは事実。野球に限らず、どんなスポーツでもチームの若返りは起こるもの」なんて冷静に自身の置かれた立場を語る一方で、「『最後の試合かもしれない』『チームメートとお別れかもしれない』と考えると、こみ上げてくるものがあった。誇りに思う野球人生だった」と日本でのラストゲームを振り返った。

 この18年シーズン、四番の座には史上最年少の3割30本100打点をマークした岡本和真が定着。岡本が自身初の大役を託された6月2日のオリック戦の前日まで、四番を打っていたのは背番号33の助っ人だった。いわば、V3時代の主力が衰え、若手も思うように育たない過渡期の巨人で、阿部と岡本の谷間をつないでくれた男が、ケーシー・マギーだったのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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