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プロ野球回顧録

「単なる馬力じゃないうまさがある」ヤクルト、近鉄に初優勝をもたらした“赤鬼”マニエル【プロ野球回顧録】

 

ヤクルトから近鉄へ移籍


近鉄時代の79年、死球離脱までの51試合で打率.371、24本塁打、60打点と打ちまくった


 陽気で、時には“赤鬼”の異名どおり、顔を真っ赤にして怒る……。ヤクルト、近鉄の2球団に、球団初優勝をプレゼントした頼れる助っ人大砲のチャーリー・マニエルだ。

 メジャーではわずか4本塁打。1976年のヤクルト入団初年度も11本塁打に終わっているが、2年目に42本塁打を放つと、翌78年には39本塁打で球団初優勝にも貢献する。しかし、広岡達朗監督は足が遅く、守備に不安のあるマニエルを嫌い、オフにトレードで近鉄に放出した。

 近鉄・西本幸雄監督は最初に打撃練習を見て、「見惚れた。体が柔らかく、単なる馬力じゃないうまさがあった」と大絶賛。2人は気が合い、互いに片言で1時間でも話した。マニエルが当時の流行歌『およげ!たいやきくん』を歌い、あの西本監督がバットをウクレレのようにして弾くマネをする姿もあったという。

 79年、DH制で守備の負担がなかったこともプラスとなり、マニエルは猛烈な勢いで打ちまくったが、6月9日、ロッテ戦(日生)で八木沢荘六からアゴに死球をまともに受け、骨折。長期離脱と言われ、近鉄のVロードに暗雲が垂れ込めたが、29試合の欠場だけでフェースギアをつけて復帰。以後も近鉄の球団初優勝に貢献し、本塁打王、MVPとなった。

ヤクルト時代のマニエル


 翌年も本塁打、打点の2冠を取り、ふたたび優勝に牽引したが、実は後期優勝の10日前に「息子の卒業式に出たいから休みをくれ」と言い出したことがあった。西武日本ハムと三つ巴の優勝争いで大変な時期だっただけに、西本監督も止めたが、「帰れないなら野球をやめる」とまで言われ、マスコミに秘密のまま4試合ほど欠場させたという。

 オフには複数年契約を求めるマニエルと単年しか認めないという球団で交渉決裂。退団となると、再びヤクルトに復帰したが、もはや神通力はなかった。フロントとの確執、負傷の連続とマイナス面ばかりが目立ち、1年で退団。その後、日本での経験を生かしながらアメリカ球界で指導者として成功を飾り、インディアンス、フィリーズの監督を務めた。

写真=BBM
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