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プロ野球回顧録

“股割り捕球”で魅せた大洋の四番打者「やっぱりホエールズで優勝したかった」【プロ野球回顧録】

 

チームの大黒柱として


長打とともに右方向への流し打ちも絶品だった松原


 大洋・横浜・DeNA史上最多の330本塁打、1172打点を記録した“ミスター・ホエールズ”が松原誠だ。

 飯能高時代は強打で鳴らした捕手。プロは3球団が勧誘に来たが、大洋が一番熱心だったのと、幼いころに亡くなった父が川崎出身だったこともあり、川崎球場を本拠地とする大洋入団を決めたという。

 1年目は序盤戦からマスクをかぶったが、早々に三原脩監督に「打撃を生かせ」と言われ、一塁転向。4年目の1965年からスタメンに定着した。翌66年にはリーグ最多の32二塁打を放ち、四番にも座った。三塁守備が増えだしたのは、この年からだ。

 続く67年は、松原にとっては印象深いシーズンになった。

「骨折した状態で126試合に出場。これは自分の勲章だと思っています。その後も、ずっと自分はチームの大黒柱なんだ。どんなときでも試合を休まない。それで1年でも長くプレーするんだと思っていました」

 71年以降はほぼ一塁だけとなる。巨人王貞治がいたこともあり、ダイヤモンドグラブ賞やベストナインの受賞はないが、柔らかい体を生かした、その一塁守備は絶品だった。送球を開脚のまま地面にペタリと着けて捕る“股割りキャッチ”は「名物みたいになってやめられず、あれで腰を痛めた」と苦笑い。

 76年には2試合にまたがる4打席連続本塁打もあったが、78年に球場が広い横浜スタジアムになったこともあり、本塁打への意識をなくす。45二塁打のセ・リーグ最多記録をマーク。打率.329は当時の球団最高記録でもあった。

 80年4月23日には阪神戦(横浜)で史上12人目、大洋では初の2000安打を達成した。同年限りで引退しようと思ったが、藤田元司監督に請われ、王が引退した巨人に移籍。自身初の優勝、日本一を経験し、日本シリーズ第1戦では日本ハムの抑え、江夏豊から代打同点ホームランも打っている。

 それでも「正直、それほどうれしくなかった。僕はやっぱり大洋ホエールズで優勝したかったんですよ」と語っている熱き“クジラの男”だ。

写真=BBM
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