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プロ野球回顧録

通算死球はベスト10入り。引退後に復帰した勝負強さと闘志で鳴らしたスラッガー【プロ野球回顧録】

 

75年には山本浩二と首位打者争い


現役は41歳まで。「俺みたいな素質のない男がよくやったと思うよ」と言う(写真は中日時代)


 1965年、電電近畿で都市対抗優勝を果たし、66年には全日本の四番となり、ハワイで行われたアマチュア世界選手権でも優勝を飾った井上弘昭。同年秋のドラフト会議では東映から指名されたが「下位(8位)だったのが嫌で断った。1位になるまで入らないと思って」と言う。

 67年秋、今度は1位で広島が指名し、ならばと入団。しかし、キャンプ中の肉離れで出遅れ、2年目には主に外野で102試合に出場するも、法大から入団の山本浩司(のち浩二)がセンターのレギュラーとなり、サードに回った。

 73年、中日に移籍。「1年目が勝負」と思った井上は外野、三塁を兼ねながら死ぬ気でやった。この年、リーグ最多となった死球もその証だ。ちなにみ通算137死球は歴代8位の記録でもある。

「現役時代には誰にも言わんかったけど、左肩が慢性亜脱臼で左ヒジをちょっと開けないとバットを振れない。そうするとバットが遠回りになるから、内角は打ちづらい。だから、外を狙って当たってもいいと踏み込んだんや」

 中日では移籍2年目に三番打者として規定打席に。巨人のV10を阻み、優勝を飾った年だ。翌75年は広島・山本浩二と首位打者争い。「ずっと争っていたわけじゃない。浩二が最後に落ちてきたんや」。井上が追う立場だったが、ラスト2試合となった10月19日の直接対決では無死満塁で敬遠されてしまった。

 迎えた21日、最終戦の最後の打席、あと1本ヒットを打てばタイトルが決まる場面で、なんとデッドボール。井上はすぐさま血相を変えて「当たっとらん」と抗議したが、もちろん受け入れられず、1厘差で初タイトルを逃した。

 81年には日本ハムに移籍。代打の切り札として優勝に貢献した。敗れはしたが、巨人との日本シリーズでは打率.375、第1戦では代打でサヨナラヒットを放っている。

 84年限りで引退。広岡達朗監督に誘われ、85年は西武の二軍コーチとなったが、右の代打不足もあって現役に復帰。「任意引退から自由契約にしてもらって、球団はヒット何本でいくらとか決めてもらった。日本初の出来高だね」。同年10試合の出場に終わり、あらためて引退した。

写真=BBM
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