投手から絶大の信頼
ヤクルトひと筋に現役生活を送った強肩捕手が
大矢明彦だ。
王貞治(
巨人)にあこがれ、その出身校の早実に進むと、投手と捕手の両方に取り組み、投手としては都大会でノーヒットノーランをしたこともある。
卒業後は駒大に進み、捕手に専念。1年秋からマスクをかぶり、3年春には四番にも座って8季ぶり4度目の優勝の原動力となった。
70年、ドラフト7位と下位でのヤクルト入団となった。当時のスカウト部長は「プロで通用するかは未知数だが、4年間で通算12本塁打のうち、満塁が2本という勝負強さに魅力を感じた」と語っている。
1年目、当時の正捕手・
加藤俊夫が交通事故を起こし、出場停止処分となったことで正捕手に抜てき。まずは強肩で売り出した。何しろ投手がウエストしなくても盗塁を刺しまくり、いつしか、あの巨人の“赤い手袋”
柴田勲をはじめ、各チームの走り屋たちが「大矢のときは走ってもダメ」と思うようになったという。
さらに、正確なキャッチング、頭脳的かつ投手の長所を引き出すリードと、若手時代から「捕手・大矢」の完成度は高く、ダイヤモンドグラブの常連となる。右腕・
松岡弘、左腕・
安田猛と同年齢の投手が主力だったこともあり、投手陣から絶大な信頼も得た。
78年の優勝では攻守に貢献。初のベストナインも手にしているが、実は前年に痛めた右手甲の骨折が完治しておらず、試合前にお湯で温めながらの出場だった。そうしないとしびれが出るのだ。「こんな苦しいシーズンは初めて。でも、こんなシーズンもなかった」と大矢。辛口の
広岡達朗監督でさえ、「大矢の魅力はすべてに合格点をつけられるところ。ベストナインは当たり前でしょう」と言い切った。
80年には自己最高の打率.283をマークし、ベストナイン、ダイヤモンドグラブを獲得しているが、
八重樫幸雄の台頭もあって出番が減り、85年限りで引退した。
写真=BBM