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プロ野球回顧録

王貞治が「あの球は左打者には打てない」。快速球を武器にした巨人のサイドリリーバーは【プロ野球回顧録】

 

腕を下ろして化けた


サイドからキレのあるボールを投げ込んだ。強心臓も角のピッチングを支えた


 動きはギクシャクして見えたが、全身を目いっぱい使った左の剛腕サイドスローが角盈男だった。スピードガンでは140キロ程度ながら、打者の体感は160キロと言われた。荒れ球でもあり、特に背後から球が来る左打者は、恐怖すら感じたという。投手としての開花は遅い。米子工高では3年から本格的に投手に。社会人・三菱重工三原でも当初は一塁手と投手の掛け持ちだった。

 1976年秋のドラフトで巨人が3位指名。だが、「プロでやっていく自信がない。時間が欲しい」と待ってもらい、翌77年秋に入団した。

 当時はオーバースロー。それも一度、天を見上げてから豪快に腕を振り下ろすフォームだ。スピードはあったが、とにかくノーコン。7月6日の広島戦(札幌円山)では、巨人投手陣が1イニング10四球。そのうち角は5人に対し一死は取ったが、1安打、3四球、うち2押し出し。それでも「アイツは馬力ボーイ」と抜群のスタミナを気に入った長嶋茂雄監督がリリーフ中心で起用し続け、78年は60試合に投げ5勝7セーブで新人王にも輝いた。

 この年、背番号はキャンプ途中まで「11」も、大洋からシピンが入団し、番号を譲って「45」。翌年には「12」に変わっている。

 2年目の79年は苦しんだ。リリーフで起用されるも何度もゲームを壊し、暴投していた試合後、先発の西本聖とともに長嶋監督に呼ばれ、「逃げてばかりいやがって! ファンに恥ずかしくないのか!」とボコボコに殴られたこともある。

 そのオフ、伝説となっている伊東秋季キャンプで腕を下げた。

「杉下(茂)コーチとやっていくうちに自然に横になった。一番しっくりくる角度まで下げてみただけ」

 これで化けた。球速はやや落ちたが、キレと制球力が増し、背番号「11」に戻った81年には51試合、104回1/3に投げ、8勝20セーブ、防御率1.47。開幕から13試合が圧巻だ。20回2/3を無失点、奪三振35。最優秀救援投手となり、優勝に貢献。王貞治をして「あの球は左打者には打てない」と言わしめた。

 85年に左ヒジを痛めた後は、左のセットアッパーとして「角−鹿取(義隆)−サンチェ」の勝利の方程式を形成した。

 89年6月30日に無償トレードで日本ハムに。92年には野村克也監督率いるヤクルトに移籍。再びセットアッパーとして46試合に投げたが、同年限りで引退している。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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