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昭和助っ人賛歌

プロ野球史上最も注目された大物助っ人!“ホーナー現象”とはなんだったのか?/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

好景気の象徴の大物大リーガー


1987年シーズン途中に来日したホーナー


「“大物”は最後にやってきた。“200万ドルの男”ホブ・ホーナー」

 これは、『週刊ベースボール』87年5月4日号の誌上先取りホーナー特集の見出しである。前年までアトランタ・ブレーブスの四番打者を務めていた男は、マイナー・リーグ経験なしの超エリート大リーガーで、78年ナ・リーグ新人王を獲得。7シーズンで20本塁打以上を放ち、年間30本超えも3度記録した。来日前年には141試合で打率.273、27本塁打、87打点。7月6日のエクスポズ戦では、メジャー史上11人目の1試合4ホーマーもマークしている。MLB通算215発で、年俸(約2億6000万円)は大リーグ全体でも8位の高給取り。いわば現役バリバリの29歳の大リーガーが、87年4月15日に日本のヤクルトスワローズと正式契約を交わしたのだ。

 まさに球史を変えるビッグディール。なお、年俸200万ドルは当時のレートだと約2億8000万円だが、日本人最高給・落合博満中日)の1億3000万円の倍以上だ。もともとヤクルトは前パドレスの万能選手、サラザールの獲得が内定していたが、田口周代表が国際電話で報告すると、松園尚巳オーナーから「こんな小物ではダメだ! 60本塁打くらい打てる大物を取ってこい」と怒鳴り返される。そこでフリーエージェントとなるも、ブレーブスのオーナー“CATVの帝王”テッド・ターナーとの関係が悪く、あまりの高給に各球団のオーナーたちも結託して条件面を抑え、交渉が滞っていたホーナーに目をつける。

 それでもさすがに日本球界には来てはくれないだろう……。だが、ヤクルトのダメ元のオファーに意外にも好反応が返ってくる。実はブレーブスは当初より条件を大きく下げ、2年契約の年俸1億5000万円を提示していた。アトランタの地元紙では、手首の故障や太りやすい体質で守備や走塁は並以下という不要論に加え、「マイナー・リーガーか、プロレスラーへの道しかない」とまで書かれ、プライドを傷つけられていた誇り高き男は、好条件の日本行きを決意する。

 1987年(昭和62年)と言えば、2月にNTT株が株式公開され、買い注文が殺到。売り出し価格119万7000円を約40万円上回る160万円の値が付き、サラリーマンや主婦を巻き込むニッポン列島個人投資家ブームへ。3月には、安田火災海上保険がロンドンのオークションで、ゴッホの名画「ひまわり」を約58億円で落札。家庭でパンを焼けるナショナルの1台3万6000円もするホームベーカリーが大人気となり、アサヒビールの新商品「スーパードライ」がすさまじい勢いで売れまくった。その好景気の象徴であり、日本の経済的成功のシンボルが、超大物大リーガーだったわけだ。松園オーナーは記者会見で「年俸は約3億円。50本塁打、打率3割を下回れば減俸」とご機嫌にぶち上げ、50発が最低ノルマと背番号50に決定。来日前から異様な盛り上がりとなり、4月27日に成田空港へ降り立つと、人々はゴッホやルノワールの名画を眺める感覚で、ホーナーの一挙手一投足を追いかけた。

3日間で最も注目される選手に


デビュー戦からいきなり本塁打を量産した


 金髪にメガネ姿で、身長185cmに少し腹が出た体重100kg近い巨体。バットやグラブを国から持参しなかったのが話題になると、「道具なんか問題じゃない。バットはバットでしかないからね(笑)。バッティングに秘伝なんかない。ビッチャーの投げたボールをバットにのせる。実にシンプルな行為なんだからね」(『週刊現代』87年5月30日号)なんて笑い飛ばす。

 注目の日本デビューは祝日の本拠地開催、5月5日の阪神戦だ。超満員の神宮球場で、「三番・三塁」でお披露目されると、第3打席に仲田幸司から右翼ポール際へ来日初アーチ。翌6日には池田親興から、左翼席に2発、センターバックスクリーン直撃弾を1発となんと計3本の特大ホームランをかっ飛ばし、7日は恐れをなした阪神バッテリーから完全に勝負を避けられ3四球。わずか3日間で、ホーナーは野球ファンを超え、日本で最も注目されるプロ野球選手になった。相手チームの一塁を守っていた三冠王バースは大リーグ時代に同リーグに所属していたが、「向こうはバリバリのスタープレーヤー。遠くから眺めているだけだった」と振り返り、「(日本の)投手がちゃんと勝負すれば、204〜205本はいくよ」なんてヤケクソ気味に呆れてみせた。

 普段は巨人戦以外、空席が目立つ神宮球場には、この3連戦で観客15万人が詰めかけ、背番号50がスポーツ新聞5紙の一面を飾り、夜のニュースでは番組冒頭でホーナーの打席結果が報じられた。すでに広告効果は軽く3億円を超えて20億円クラスと言われ、ヤクルトの株価は前日比180円高を記録し、本社社員食堂の話題はホーナー一色。ヤクルトレディはお客さんとの共通の話題が生まれ、販売が伸びたとホクホク顔だったという。当時のヤクルトは万年Bクラスで前年は最下位だったが、ホーナーの加入で評論家たちはこぞって優勝候補の台風の目と予想する。

 その風貌から“赤鬼”と名付けられた助っ人は、9日の広島戦でも右に左に2発かっ飛ばし、まるで打って当然と言わんばかりのポーカーフェイスでベースを回る姿は、堂々たる大リーガーの風格があった。この時点で11打数7安打の打率.636、6本塁打の大爆発。“ホーナー現象”はスポーツメディアを超え、経済誌でも特集されるほどだった。

『ニューズウィーク』日本版87年5月20日号では、「円高のおかけで日本の球団がトップクラスの大リーガーと契約しやすくなった」というコラムが掲載。『週刊ダイヤモンド』87年6月20日号にて「“ホーナー現象”に見たいびつな国際化」対談を慶大教授の池井優としているのは、当時オリエント・リース社長の宮内義彦だ。饒舌に野球について語る宮内に、「(新球団の)“オリエント・リーシーズ”なんていうのは出そうもないですか(笑)」なんて池井が突っ込み、「福岡につくるとか、札幌につくるとかいうことで企業を募集するという話があれば、考える企業は多いのではないでしょうか」と冷静に答えた宮内は、その翌年に自ら阪急ブレーブスを買収することになる。

 87年5月から6月にかけて、“ホーナー”の見出しをつければ新聞も雑誌も売れた。アイドル雑誌『週刊明星』87年6月4日号では、「ホーナー選手が放った愛の場外ホームラン計画!」をリポート。自身の弟を白血病で失っていることもあり、進んでチャリティ活動をしていた大リーグ時代を紹介している。日本でも、ホームランを1本打つたびにヤクルトの関連企業が20万円をホーナー基金に拠出することになり、神宮球場のネット裏シート50席ほどを“ホーナーズ・ボックス”として、子どもたちを招待する計画もあるという。そんな大リーガーのグラウンド内外でのふるまいはチームメートにも好影響を及ぼした。背番号50が時折見せる一塁への全力疾走には、広沢克己も『週刊ベースボール』のインタビューで、「みんなが忘れかけていた全力プレーをホーナーさんが教えてくれた!」と感謝。スーパースターがあれだけ走っているのだから、自分たちも手を抜くわけにはいかないと“ホーナー効果”を語った。

次第にサボりがちになって……


試合に備え体を動かすホーナー(右。左はレオン)


 勝負を避けた敬遠気味の四球攻めに加え、三塁守備時の右手中指突き指の影響でホームランのペースこそ落ちたが、その人気はとどまることを知らず、球団グッズは甲子園のアイドル荒木大輔のサインボールがよく出て1日50個、それがホーナーは1日で軽く300個は売れた。オールスターファン投票では、一塁手部門で2位の中畑清(巨人)を7万4000票も引き離す16万7062票を集めトップ選出。しかし、まともにキャンプすらしていない赤鬼は慣れない日本の空梅雨にも体力を奪われ、徐々にバテだす。7月2日の巨人戦は腹痛を訴え欠場。4日の広島戦は風邪で再び欠場したが、この時の熱が37度2分だったことが話題となる。まるで保育園児のようなデリケートなレッドデビル。そして、11日の巨人戦で水野雄仁が投じた外角カーブを空振りした直後に、右ヒザからホームプレートに崩れ落ちた。診断結果は腰ツイ捻挫。球宴も辞退し、復帰まで1か月近くを要すことになる。

 さらに、当初は「フットボールの花形選手になった気分さ」と余裕を見せていたマスコミの取材攻勢も、同僚レオン・リーの車に同乗して飲みに出ただけでカメラに追い回される生活に嫌気がさし、球場帰りに必ずケンタッキーフライドチキンと大量のビールを買い求めるようになる。日に日に増える体重。そんな中、サントリーの缶ビールCMで「モウ、イッポン!」なんつってアイドルの薬師丸ひろ子と共演する。『週刊サンケイ』87年9月3日号で対談した小林繁にそのCMについて聞かれると、初めて笑顔を見せて「とても有名で日本人のアイドルと聞いていました。会ってみて、“やっぱり、なるほど”とうなずけるほどかわいかったよ」なんて照れ笑いをかますホーナーであった。

 この対談が行われた8月11日現在で17本塁打。当初は軽くクリアできると見られていた50号超えはかなり難しくなり、チームも大洋と4位争いがやっと。まだ30歳になったばかりにもかかわらず、故障から復帰後は最終打席に「若手を使え」と立たなかったり、グラウンドに一歩足を踏み入れた途端に「足が痛い」と欠場することもあった。これには当初は尊敬の眼差しを向けていた若手選手たちも呆れ、関根潤三監督はこう愚痴った。

「新宿にマンションを用意したんですが、外国人が多く、英語も通じやすい六本木にしてあげるべきでした。奥さんが新宿での孤独な生活に耐えきれず(20日間の滞在のみで帰国)、ホーナーも暗くなっていきましたから。しかしホーナーは怠け者でしたね。もっとまじめに練習すれば……ね」

 しかし、練習をサボりまくり休みがちになっても、試合に出ればホームランをかっ飛ばす。最終成績は93試合で打率.327、31本塁打、73打点。規定打席未到達の30本塁打は史上初で、OPS1.106は同年のバースや落合を上回った。ホーナーは、シーズン終了後に『地球のウラ側にもうひとつの違う野球(ベースボール)があった』(日之出出版)という本を出版して、長い練習時間や愛煙家の多い日本人選手、さらには巨人寄りの審判の判定にブチギレ、怒りのまま日本を去ったイメージが強いが、実は当初は翌88年シーズンの残留も確実視されていた。なにせヤクルトの1988年カレンダー表紙を飾るのは、背番号50の“赤鬼”なのである。

契約延長の可能性もあったが……


私服姿でリラックスするホーナー


 ヤクルト主催試合の87年総入場者数は、前年より24%増の221万5000人と球団初の200万人突破。巨人に次ぐリーグ2位と人気面では大躍進を遂げ、本人の「(来季も)日本へ行くならスワローズでプレーするよ」という前向きなコメントに応え、用意した契約は3年12億円クラス。もしくはCM、インタビュー、アドバイザー料も含め年間5億円の複数年とも報じられた。大リーグに帰れば、この3分の1以下の年俸しか提示されないはずだ。ならば秋のドラフトで獲得したゴールデンルーキー長嶋一茂が三塁、ホーナーは一塁で、新シーズンの球界の話題はヤクルトが独占するだろう……。しかし、だ。そんなプランもあえなく崩れ去る。11月24日、テキサス州ダラスに帰国中のホーナーが、AP通信記者の電話インタビューに答えた内容が物議を醸してしまう。

「99.9%、私は日本へ戻るつもりはない。私は大リーグで、野球とはどんなものであるべきか、たたき込まれて育ってきた。それが、野球とは言えないようなものをプレーするために地球を半周させられるのではね。古巣ブレーブスなど4、5球団が接触してきており、米大リーグからの交渉申し入れを待つ」

 MLB通算1000安打まであと6本。年金資格もあと1シーズンで得ることができる。私生活では父が病気療養中で、長男も小学生になる。なによりもホーナー自身が大リーガーであることに強烈なプライドを持っていた。翌春、『週刊ベースボール』4月30日号増刊号「1988米大リーグ総ガイド」の表紙を飾るのは、セントルイス・カージナルスの赤いユニフォーム姿のホーナーだった。年俸90万ドル(約1億1000万円)ほどの1年契約だったが、6月初旬に左肩を痛め故障者リスト入り。60試合で打率.257、3本塁打、33打点という成績に終わり、手術を受けたが思いのほか重症で、翌89年春に引退を発表する。まだ31歳の若さだった。

 今思えば、80年代は日本の野球ファンにとって、まだメジャー・リーグは遠い海の向こうの出来事でリアリティのないものだった。我々はボブ・ホーナーを入口に秋の親善野球とは違う、ホンモノの大リーガーのすごさを知ったのだ。なお、ホーナー効果に刺激を受けたのか、巨人は87年オフにヤンキースの抑え投手デーブ・リゲッティに対し、2年1000万ドル(約13億円)の好条件を提示したことが話題となった(実際に獲得したのはビル・ガリクソン)。とどまることを知らない狂熱のバブル景気は、この後、数年間続くことになる。

 プロ野球史上最大級の衝撃デビューから34年――。わずか半年ほどの在籍で嵐のように去っていったが、その事実がより背番号50の鮮烈さを際立たせる。当時、ヤクルト国際スカウトを務めた中島国章氏の『プロ野球 最強の助っ人論』(講談社現代新書)では、後年に再会したホーナーが漏らした、こんな言葉を紹介している。

「日本で大きなケガをしなくて良かった。日本と米国では僕の立場がまるで違う。ヤクルトに迷惑をかけなくて良かったといまでも思っている」

 あの頃、ボブ・ホーナーは彼なりに自分の立ち位置を理解して、日本球界に襲来した「最強の赤鬼」という役割を最後までやり通したのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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