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伊原春樹コラム

西鉄・太平洋と違い常に「日本一」を意識していた巨人。長嶋監督も勝負事に熱かった/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2020年12月号では巨人第1次長嶋政権に関してつづってもらった。

自主トレで王さんが先頭に立って走る


第一次政権時の巨人・長嶋監督


 西鉄に入団して5年目の1975年、チームは太平洋クラブとなっていたが江藤慎一監督のスタイルに合わずに私は球団上層部にトレードを志願した。すると2、3日後に呼び出しされて「巨人に行ってもらう」。西鉄・加藤初と巨人・関本四十四玉井信博との交換トレードにくっついていくことに。76年から長嶋茂雄監督が率いて2年目の巨人でプレーすることになった。

 サードを守っていた私は当然、アマチュア時代からテレビ画面を通して長嶋さんのカッコ良さを目にしていた。広島の田舎では巨人戦もなかなか放映されなかったが、日本シリーズは別。当時はV9時代で毎年、日本シリーズに巨人は進出していた。高校、大学時代は長嶋さんのユニフォームの着こなしから、ゴロを捕って一塁へ送球したあとに手をヒラヒラさせる仕草など一挙手一投足をマネしたものだ。

 長嶋さんの打撃はマネするのが難しかった。運動神経が並外れて良かったのだろう。バランスを崩しても芯に当てる。長く持っていたバットを始動するとき短く持ち替える。抜群にチャンスに強かったが、やはりそれだけの技術を持っていたということだろう。ただ、長嶋さんは投球を見逃した際、審判のほうを見て「ボール! ボール!」と叫ぶことがあったが、それはよくマネしたものだ。

 そういえばプロに入ったころ、ウエスタンの試合で中日と闘った際、中日ベンチから「チョーさん、チョーさん」という声が飛んできたこともある。私のプレーが長嶋さんと似ていたということだろう。

 だが、巨人に移籍が決まったとき、正直言って手放しで喜ぶことはなかった。当時26歳。75年は太平洋で22試合の出場に終わっている。野球選手としての未来を考えると、巨人で生き残っていけるか不安のほうが大きかった。長嶋監督就任1年目の75年、巨人は球団史上初の最下位に終わっている。オフには張本勲さんを日本ハムから獲得。左翼手だった高田繁さんを三塁へコンバート。遊撃には河埜和正もいた。私の出番も限られることは容易に予想がついた。

 そうは思っても頑張るしかない。合同自主トレは多摩川グラウンドで行われたが陸上十種競技で東京五輪に出場経験のある鈴木章介トレーニングコーチの下、とにかく走らされた。1周7、800メートルくらいだろうか。何周も、何周もドンドン走る。私も3、4日目くらいには肉離れ寸前までいくほどだった。本当にきつくて音を上げそうになったが、巨人では王貞治さんが先頭に立って走っている。62年から74年まで13年連続で本塁打王に輝いた大打者が一生懸命なのだから、私が手を抜くわけにはいかない。そんな王さんの姿を見て張本さんも「伊原、きついな」と言いながら、体にムチを打って食らいついていた。王さんと張本さんは同学年。巨人に来て、王さんとともに練習したからこそ、張本さんの選手寿命も延びたのだと思う。

 宮崎キャンプではいきなり西鉄・太平洋との違いを感じた。キャンプ前のミーティングだ。正力亨オーナーの訓示から始まるのだが「日本一」という言葉が何度も出てくる。長嶋監督の口からも当然「日本一」。私が西鉄に入団したときは“黒い霧事件”があり、チームが弱体化。チーム内で優勝の“ゆ”の字も出てくることはなかった。それが巨人は全然違う。チーム内の誰もが「日本一」を意識している。そこに向けて、チーム一体となることの重要性を感じたものだ。

初打席の当たりが内野安打になっていれば


1975年オフ、太平洋クラブから加藤初(右から2人目)とともに巨人へトレード移籍した筆者(左)。入団会見で長嶋監督(右)とともに写真に納まる


 長嶋監督と言葉を交わすことはそんなになかった。ただ、キャンプでフリー打撃をしているときに、ケージの後ろから「バットに当てるの、うまいねえ」と、あの甲高い声で言われたのは覚えている。

 巨人での初めての紅白戦に出場したときも印象深い。一死一塁で打席に入った。サインが出ていなかったので初球、打ちごろのボールを思い切り引っぱたいたのだが、5−4−3の併殺に。そのあと、コーチに呼ばれて「ああいう場面では初球を見逃して、どういうサインが出るか見てくれ」と言われたが、このあたりもライオンズとの違いだった。

 開幕からは二軍暮らし。ようやく一軍に上がれたのは7月下旬だった。最初は守備固めの出場だったが、思い出すことがある。甲子園での阪神戦に三塁守備に就いたのだが、二死満塁のピンチとなった。打席には西鉄で同期入団の片岡新之介。私と同じタイミングで阪神へ移籍していたが、彼がサードフライを打ち上げた。ライオンズ時代と違い、超満員の観客。しっかりと捕球したが、私は打球が落ちてくるのを見ながら、「もし、落球したら……」と怖くなったものだ。

 8月3日、ヤクルト戦(神宮)では代打で初めて打席に立ったが、投手は左腕の安田猛。左投手を得意としていた私は、「これはいけるな」と自信満々で打席へ。少し芯を外したが安田のボールを思い切り引っ張った打球は三遊間を襲った。これを三塁の船田和英さんがいっぱいいっぱいで捕り、一塁へ送球。私は間一髪でアウトになってしまった。もしショートが処理していたら、おそらく内野安打になっていただろう。

 運命の分かれ道といったら大げさかもしれないが、その後も安打は生まれず、計5打数0安打。9月6日のヤクルト戦(後楽園)が最後の出場になってしまった。約1カ月半、一軍にいてわずか5打席。当時は控え選手には試合前練習のフリー打撃で十分な打席を与えられることもない。打撃の感覚をつかむのも容易ではなく、たまに立つ打席で結果を残すのは難しかった。

後楽園球場は球界初の人工芝だったが……


 ただ、いろいろ思い出はある。まずは勝負事に熱くなる長嶋監督の姿。神宮でのことだ。この球場はベンチからロッカーへ入るには鉄のドアがあり、それはいつも開けっ放しだった。あるとき、試合中に長嶋監督が興奮して、ロッカー側から鉄のドアを蹴り上げた。するとドアが閉まり、開かなくなってしまった。ロッカーから「おい、開かないぞ」という長嶋監督の声。だが、国松彰コーチが「しばらくほっておいて、頭を冷やさせたほうがいい」と言っていたのが思い出される。

 ベンチでは長嶋監督のそばに座っていた。控え選手が攻撃のサインを出すことになっていたからだ。長嶋監督が「ヒットエンドラン」と言ったら、控え選手が三塁コーチャーにサインで伝える。長嶋監督はその際、いつも、「三塁コーチャーは打者にサインを出したか」とわれわれに聞いてきた。「自分で確認すれば事足りるのに……」と思ったものだ。そういえば当時から球審に代打を告げるとき、バントの格好をしながら「バッター・○○」と口にすることもやっていた(笑)。

 王さんが通算700本塁打を放った試合(76年7月23日、大洋戦=川崎)も私はベンチにいた。その試合は私が巨人で初出場した試合でもあった。王さんは試合前のフリー打撃でもほとんどがスタンドイン。試合でも練習時のように打席に立って打球を飛ばす。なかなかできないことだが、それをいとも簡単にやってしまうのが王さんのすごさだと感じた。

 この年から後楽園球場は日本初の人工芝となったが、はっきり言ってプレーしづらかった。まだ品質が悪く、コンクリートの上で野球をやっているようで体に負担がかかった。スライディングをすれば火傷し、土と比べて打球の速さも段違い。三塁を守っていて、三塁線の打球に対して土では右足を滑らせて処理できたが、人工芝ではむりだったので逆シングルで捕るしかなく非常に困った。

 76年、巨人は優勝を果たしたが、私は二軍にいたので印象は薄い。77年も一軍に1度も上がれず。二軍暮らしに終始したが、前年ドラフト1位で入団した篠塚利夫(現和典)の高卒新人らしからぬ柔らかい打撃などよく覚えている。

 私は78年ライオンズに復帰。巨人在籍はわずか2年だったが、貴重な経験を積んだのは間違いない。

写真=BBM
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