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サヨナラ西鉄ライオンズ、最後の秋のオープン戦/週べ回顧1972年編

 

 3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

野村克也、広瀬叔功は和解


表紙は右から巨人堀内恒夫、阪急・福本豊


 今回は『1972年12月4日号』。定価は100円。

 11月18日、19日と平和台、小倉球場で西鉄─巨人の秋のオープン戦が開催された(当時は秋にもあった)。
 平和台に2万人、小倉に2万3000人の観客が詰めかけ、客席には「ジャイアンツ八連覇おめでとう」の横断幕とともに「サヨナラライオンズ」「強くなれ! ライオンズ」ののぼりも見られ、熱い声援が送られた。

 この2試合、実は主催は巨人。巨人が一塁側に入り、ユニフォームもホームを着用した。西鉄がビジターで平和台には違和感があるが、西鉄の名称での試合は、これが正真正銘の最後と思えば、胸の「NISITETU」の文字も味わいが深くなる。

 巨人・長嶋茂雄が「昔の西鉄は強かったよ。守っていても怖いくらいだった。それが赤字で消えてしまうなんてねえ」と話し、西鉄・稲尾和久監督は「名前が変わってもチームは存続するのだから感傷はない」と言っていたが、表情はそうは思えなかった。

 直前、ライオンズの中村長芳オーナーがあいさつを兼ねて、巨人の球団事務所を訪れた際、正力オーナーに「ライオンズ再建のために協力してください」と依頼。新浦、松原、島野のうち1名の金銭トレードを申し込んだ。

 実際、川上哲治、稲尾両監督が福岡の料亭で会い、この件に関する話し合いが持たれたが、川上監督から「金銭ではなく、交換で」と言われ、稲尾監督は「現有戦力で四苦八苦しているので一人でも出すことは無理」と答え、話自体が流れたようだ。

 移籍と言えば、南海で毎年、移籍要員に名前が上がるのが広瀬叔功だった。チームの若返りとともに鶴岡一人色が強い広瀬を野村克也監督が嫌がっていた、とも言われた。

 この年も同様に名前が挙がっていたが、11月15日、野村監督と広瀬が面と向かって話し合いを持ったあと、
「広瀬がチームのためにバッティングを変えてくれると言ってくれた。振り回すバッティングからたたきつけるバッティングに変えたら足も速いし、まだまだやれる」
 と野村監督。

 対して広瀬も、
「監督の考えていることが分かった。自分としては他球団のユニフォームを着る気がないし、南海に骨を埋める気でいた。監督がその気持ち分かってくれ、もう一度やってみろと言ってくれた。こうなればわだかまりを捨て心機一転やるだけや」

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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