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ともに奔放な個性派で知られた青田昇、金田正一の新監督就任会見だったが……/週べ回顧1972年編

 

 3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

悲壮感漂う青田の会見


ロッテのガムを持ってポーズを取る金田監督(左)


 今回は『1972年12月4日号』。定価は100円。

 11月14日、青田昇の大洋監督就任が発表された。
 72年のシーズン中、成績不振から別当薫監督を休養させ、コーチだった青田が監督代行になったが、成績は改善せず、体調を崩したこともあって青田も休養、宮崎剛が監督代行の代行になった。
 就任の理由について中部謙吉オーナーは、
「青田君は自分はヘッドコーチが適任だというし、宮崎君は青田君がいいと言う。そこで青田君に正直なところどうだと聞いたら、やってみたいというから、まあ、ネームバリューも青田君のほうが上だしね。このままなら今度解説者になっても大きなことは言えんしな」
 この人は何でも口に出してしまう。
 確かに辛口が売りの解説者青田が、監督に失敗、しかも逃げるように休養したまま終わったとあれば、あまり格好のいいものではなかろう。

 就任会見で青田も、
「監督を引き受けた今でも、ワシはヘッド、参謀が適役だと思っている。しかし男としてやらないかんときが来た。自分の番が回ってきた。決心させたのは不成績」
 ときっぱり。悲壮感あふれる言葉に、じゃじゃ馬らしい威勢のいい言葉を期待していた記者たちも驚いた。
 青田は中部オーナーに対して、
「このままでは死にきれん。もう一度チャンスを与えてください。男にしてください」
 と頼み込んだという。

 もともと中部オーナーには、功労者・秋山登を監督に、という考えがあり、そのつなぎを青田か宮崎かという選択だった。

 ロッテ監督を受けながらアメリカ滞在中で正式契約をしていなかった金田正一監督が帰国。17日に就任会見をしたが、こちらは青田と違い、カメラに向かい、Vサインでポーズを取ったり、選手時代のイメージそのままだった。
「野球界に金田旋風を巻き起こすつもりや。ワシが体で覚えた野球をやっていくまで。他人様からバカや、あほうやと陰口をたたかれてもワシは平気や。どっちみちワシ自身球界の問題児。マスコミに書かれんようになったらおしまいや」
 ポンポン飛び出す言葉に記者たちも何度も爆笑。
「現役時代、逆にワシは何人もの監督をクビにしてきた男や。監督と選手が兄弟のように一致団結していかなあかん。だからわし自身も選手と一緒になってトレーニングをやる」
 と抱負を語り、補強について聞かれ、「川上さん(巨人川上哲治監督)にお願いして2、3人の選手をもらいにいくつもりや」。
 具体的な狙いとして巨人の渡辺秀武阪神鈴木皖武、あとは実弟の東映・留広の名前が出た。ベテラン、小山正明については、
「ワシのピッチングタイプとはまったく異質の人。それにサラリーに比べて先が短い」
 と放出も明言している。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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