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昭和助っ人賛歌

早すぎたフライボール革命!? 最低打率で本塁打王となった広島の“一発屋”ランス/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

年俸3000万円、超格安の左の大砲


メジャーでは通算2本塁打だったが、NPBではホームランを量産したランス


 田村正和がニューヨークの街で躍動する。

 1987年(昭和62年)1月に放送開始されたTBSテレビ系列ドラマ『パパはニュースキャスター』では、当時43歳の田村正和がニュースキャスター鏡竜太郎を演じた。独身主義者でプレイボーイの鏡の前にある日突然、自分の娘だと主張する3人の少女が現れる。「あの田村正和が戸惑いながらも等身大の父親を演じる」というストーリーは新鮮で、平均視聴率22.0%を記録。同年秋にはスペシャル版『パパはニュースキャスタースペシャル摩天楼はバラ色に』も放送された。派手なニューヨークロケを敢行し、ギラついた田村正和は日米貿易摩擦を論じ、NYで金髪ギャルを口説く。ドラマ全編、異様なハイテンションで突っ走るのだ。劇中で、「(アメリカにとって日本は)戦争で打ち負かしたアジアの一国、その経済的後塵を拝することはですね、世界のリーダーシップを自負する国のプライドが許せないんでしょうね」なんて鏡竜太郎の台詞が出てくるが、ドラマからは好景気に突入した当時の経済大国ニッポンの雰囲気が伝わってくる。

 年俸2億8000万円のホーナー(ヤクルト)、1億8000万円のオグリビー(近鉄)と円高は球界の助っ人バブルをもたらしたが、その流行に逆行したのが広島カープだ。前年の86年は12球団で唯一の外国人選手抜きでペナントレースを戦いながらも、2年ぶりのリーグ優勝。現役ラストイヤーも27本塁打を放ち四番を張ったミスター赤ヘル山本浩二が引退すると、代役で87年の新助っ人に年俸3000万円と超格安の左の大砲を連れて来た。リック・ランセロッティ、30歳。そう、あのランスである。

 広島は資金力こそ乏しかったがフィーバー平山駐米スカウトは知恵を絞り、新外国人選手のランスとジョンソンの来日前にアメリカで“日本野球講習会”とミニキャンプを敢行する。講師はロッテに在籍していたジム・ラフィーバーだ。MLB通算2本塁打と実績もなく、真面目な性格のランスはそれらを受け入れて入念に準備を重ね、来日すると山本浩二が長年務めた開幕四番に抜擢される。初アーチは4試合目の4月14日の中日戦。そこから4試合連発の活躍で、19日の巨人戦では変則左腕の角三男を苦にせず、9回に引き分けに持ち込む同点アーチをかっ飛ばした。痩身ヒゲ面の背番号45は、なんと開幕から11試合で7本塁打の固め打ち。絶好調と絶不調を繰り返す不安定さから打順は七番に降格したが、6月には史上7人目の6試合連続本塁打も記録する。日本の肉の美味しさと飲食店を含む物価の異様な高さに驚き、買い込んだ缶ビールを自室で飲むのが試合後のささやかな楽しみだった。

「ランスにゴン」『麦わらでダンス』


来日1年目は自身の打撃スタイルを崩さずに、最後は本塁打王を獲得した


 まさにホームランか三振か。とんでもない空振りが続いたかと思えば、ガツンと意外性の一発を放ってみせるプレースタイルで、当時の“タンスにゴン”CMをもじり「ランスにゴン」とよくネタになり、応援歌は生稲晃子の振り回せランス……じゃなくて『麦わらでダンス』である。87年のペナントレースは江川卓に代わり、19歳の桑田真澄が新エースとして台頭した王巨人が悲願の初Vに向けて首位を快走したが、ランスはそのジャイアンツ戦に滅法強かった。8月20日の後楽園球場では「生まれて初めて」というレフト方向への29号アーチを桑田から放ち、24日時点で2位の原辰徳に3本差をつけてのキングも、打率は31位の平田勝男に3分近い大差をつけられ最下位を独走した。

 相手守備陣が右に寄る“ランスシフト”も早い段階で登場するほど、とにかく打球を力いっぱい引っ張る極端なプルヒッターだったが、マイナー時代に在籍した当時の2A級バッファローの本拠地は、左翼106メートルに対し、右翼93メートルと極端に狭かった。そのため、右翼フェンス上には高さ10メートルのネットが張られたが、左打者がオーバーフェンスをするにはライナー性ではなく、高々とフライを打ち上げるのが有利となる。ランスはその独特な形状のホーム球場を得意とし、41本塁打、107打点で二冠王に輝いた。当時のカープの本拠地は、両翼91.4メートルでフェンスも低い広島市民球場だ。さらに後楽園球場や改修前の神宮球場、ナゴヤ球場やまだラッキーゾーンのある甲子園とセ・リーグの各球場は狭く、ランスの早すぎたひとりフライボール革命は日本でハマった。

 当然、低打率やゲーム状況を無視したフルスイングは首脳陣からは「チームバッティングもしてもらわないと困る」と注意されたが、「今さら変える気はない。オレはホームランを打つために日本に来たんだ」なんつってひたすら明日に向かってフルスイング。「なんでオレが七番なんだ?」と愚痴りながらも、終わってみれば、リーグ最多の114三振ながらも39本塁打を記録して、打率.218の史上最低打率のホームラン王が誕生した。

首脳陣主導のモデルチェンジが失敗


 しかし、470打席でわずか88安打、内39本が一発という、そのあまりに気まぐれな確実性のなさに「このままじゃ使わない」と、阿南準郎監督は2年目を迎えるランスにキャンプでのフォーム改造を厳命。広島生活を気に入っていたデブラ夫人の説得もあり、ランスはミート打法習得に取り組む。『週刊ベースボール』88年4月11日号では「今年から、ホームランよりも打率を残すバッティングをする。そのための練習なんだ」というランスの前向きなコメントも確認できる。

 しかし、だ。結果的にこの首脳陣主導のモデルチェンジは、ランスのストロングポイントを消してしまう。阿南監督も責任を感じたのか我慢強く起用したが、夏場にはスタメン落ち。すると背番号45は緊張の糸が切れたかのように試合途中で風呂に入り、私服に着替えてゲームセットを待っていたりするほとんど不貞腐れたような問題行動が増える。打率.189、19本塁打、50打点、58三振。ホームランも三振数も半減してしまい、迷走したランスはモチベーションを完全に失い、ペナントを30試合近く残した9月6日に退団発表。「ボス(阿南監督)もフロントもオレを必要ないっていうから、それなら辞めさせてくれって。こっちから頼んだ」なんて怒りのコメントを残し、日本を去った。

 2年間で通算58本塁打。首脳陣が型にはめずランスの打撃スタイルを生かしていれば、もっと息の長い助っ人選手になっていたのではないだろうか。いまだに「最低打率の本塁打王」の一発屋と度々ネタになるが、それでもしっかり球史にその名を刻んでみせた。87年のセ・リーグのホームラン王争いは春先から大きな話題となっていたが、終わってみれば大型トレードでロッテから中日へ移籍してきた“三冠王”落合博満でも、“神様”バースでもなく、“赤鬼”ホーナーでもない。年俸3000万円の無名の助っ人ランスが、キングの栄冠を手にしたのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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