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プロ野球回顧録

阪神時代には「PKO問題」も勃発した大洋の“安打製造機”パチョレック【プロ野球回顧録】

 

得意の変化球打ちで日本球界に適応


大洋時代のパチョレック


 28歳という若さで来日し、日本在籍は6年足らずながら、3度の最多安打をマークした安打製造機がパチョレックだ。

 ミシガン大から1982年のドラフト8巡目でブリュワーズに入団。87年に初めてメジャー昇格を果たし48試合に出場したが、オフに大洋から声をかけられると、「今年はたぶん3Aからのスタートになったと思う。若いのに、というかもしれないが、若いからこそいろいろなことを経験してみたくて日本に来た。それに日本のほうが条件も良かったし」と、入団を決めた。

 一塁と外野で1年目からフル出場を果たし、確実性のある打撃でリーグ2位の.332をマークし、最多安打も記録。無名の実力派は、一気に人気者となった。

 2年目も打率2位。もともと変化球打ちが得意だったこともあって日本の野球にもアジャストし、3年目の90年には、ついに念願の首位打者に手が届いている。8月4日の中日戦(横浜)では、延長15回裏に5時間51分(当時の最長試合時間)の死闘に終止符を打つサヨナラ安打を放ち、この日は7打数4安打2本塁打6打点の大活躍など、以降も高打率をキープ。実は、この年の序盤は本塁打狙いで調子を崩していたが、大杉勝男打撃コーチから苦手の内角打ちを教わって克服したことがタイトル獲得につながった。

 しかし、4年連続で3割超えをマークした翌91年のオフ、本塁打が少ない(11本)という理由で契約を切られてしまい、阪神へと移籍。92年は3度目となる最多安打を記録するなど、前年最下位から2位へのチーム躍進に貢献した。

 だが翌93年、阪神が台湾の投手・郭李建夫を獲得すると、当時は外国人選手の出場登録が2名だったため、オマリーを含めた3人のうち一人が二軍落ちという状況に。それぞれのイニシャルの頭文字と、当時世間を騒がせていた国連平和維持活動参加問題に合わせ、“阪神PKO問題”とも言われた。結局パチョレックは腰痛もあって調子が上がらず、出場機会が激減。8月に二軍落ちすると帰国し、そのまま退団した。

写真=BBM
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