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プロ野球回顧録

「被本塁打の数は男の額の傷や」球史に残る幾多の記録を打ち立てた83年近鉄・鈴木啓示【プロ野球回顧録】

 

「目標は300勝ではない」


10月5日の阪急戦(岡山)で通算74度目の無四球試合をマークした鈴木


「草魂」を座右の銘とする近鉄の36歳のベテラン・鈴木啓示は1983年、14勝を挙げたが、幾多の球史に残る記録も打ち立てた。まずは4月22日、南海戦(大阪)。史上4人目の通算300完投は延長10回を投げ抜いてだったが、試合はドローだった。この年、28試合に登板し、23完投。日本ハムが全体で21完投だから一人でそれ以上となる。そのまま開幕から16試合、前年から数えると23試合連続完投を飾っているが、すべて勝っているわけではない。勝っても負けても、同点でも、最後まで投げ続けた。

 7月8日には、日本初の500被本塁打も記録。南海戦(平和台)で、相手は門田博光だった。その後、メジャー記録の502本を抜き、83年シーズン終了時には513本となった。この記録に対する鈴木の言葉がいい。

「被本塁打の数は、男の額の傷や。何も恥ずかしがることはあらへん。男が背中も見せず、正々堂々と勝負した結果やないか、ワシが18年間、逃げずに真っ向から勝負した証しや」

 ここまで順調に来たわけではない。速球派で壁にぶつかったとき、西本幸雄監督の説得で投球術を覚え、復活。78年には25勝で最多勝になったが、以後、ジワジワ勝ち星が減り、81年は5勝に終わった。「そろそろ限界」の声も出た時期だ。ただ、鈴木は「すぐワシの力が必要になる」と言い続けた。この年のキャンプでも「若いヤツの練習は調整や。キャンプで調整しとって、公式戦で勝てるはずがない」と言い、早々にグラウンドを引き揚げる若手投手をしり目に、一人、黙々と走り続けた。

 10月5日、阪急戦(岡山)には、無四球74の日本記録もつくった。3ボールすら1つもない。3回には中沢伸二の打球を右胸に受けるアクシデントもあったが、「あれは神様がワシに与えてくれた試練や、記録はそう簡単につくれん。調子がいいときほど慎重にやらないかんという教訓やった」と淡々と語る。

 抜き去ったのは、精密機械と言われた小山正明(阪神ほかの右腕)だ。「小山さんの記録はボール半分、いや3分の1のコントロールで勝負する。ワシの無四球は目をつぶって、この球打ってみろ! と投げた結果や。ノーコンが多いと言われた左腕で、この記録をつくったのも大きかったんやないかな」。

 希代の記録男は、翌年に向け、さらなる大記録が控えていた。まず、史上6人目の通算300勝だ。83年シーズン終了時には、残り4勝。「ワシの使命は300勝やない。その上にいくつ積み上げられるかや。そやな、321勝が目標と言えば言える。小山さんを抜いて、歴代3位に入りたいな」。目標はあくまで高く、だった。

写真=BBM
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